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24・宇俊と葵翠


「夜鈴様、よろしい? 幽鬼を人に戻す必要はないのよ。霊感の乏しい人間にも姿が見える程度に妖力の注入をとどめて、幽鬼らしさを残してちょうだい」

「はい……」


 芳静と夜鈴が今いるのは、葵庵跡地である。野餐のときに張った天幕がそのままにしてあり、その中にいた。

 そして、菊花殿の妃嬪侍妾、宮女宮婢が探している宇俊皇子の幽鬼も、今ここにいる。ここにいて、半分透けた姿で〈ははうえ……〉と力なくつぶやいている。夜鈴は幽鬼になってまで政治の道具にされる皇子が痛々しくてならなかった。一刻もはやく母后の廟に連れていってあげたい。


(国で一番大切にされるはずの皇子が一番ひどい目にあって)


 高貴な生まれならしあわせとは限らない。高貴な人に愛されればしあわせとも限らない。

 皇帝に愛されたがゆえ陥れられた葵翠は、恨みを募らせて当然なのに、幽鬼となった彼女の口から出て来る言葉は「宇俊皇子をお助けしたい」と、そればかりだった。


 ずっと泣いているからと。離れていても泣く声が聞こえるからと。

 そばにいき、なぐさめて、母后陛下のもとへお連れしなければと。そればかり、繰り返し繰り返し。

 ここで葵翠に妖力を注ぎながら、夜鈴は泣けて泣けてしょうがなかった。

 葵翠は誰も恨んでいなかった。

 哀れな我が身を憐れんでもいなかった。復讐を望んでもいなかった。

 葵翠が幽鬼となり果てたのは怨恨ゆえではなく、さむいさむいと泣いている宇俊皇子を助けたい、ただその一心だった。理性を失った幽鬼は嘘などつけない。本当に葵翠は、どこまでも美しい心の持ち主だった。


 そんな彼女が罪を着せられ冷宮に閉じ込められ、妖魔の餌食とならなければいけなかったなんて。


(後宮ってひどいところ)


 再び溢れ出そうになる涙をくいとめるように、夜鈴はキッと唇を引き結んだ。


(後宮なんて、なくなってしまえばいい)


 夜鈴は後宮に来て星宇と香月に出会い、しあわせと言っていいほどの穏やかな暮らしを得た。後宮が好きかもしれないと思った。でもそれはきっと薄氷の上の平穏だ。菫花殿には今でも時折、夜鈴を呪うための呪物が仕込まれる。

 

 もう誰にも恨まれたくない。義母の峰華が夜鈴を見る冷たい目、あれと同じ目に出会いたくない。だから、いつか後宮を出ていくつもりでいる。


(でも出て行く前に――後宮を彷徨う不幸な魂があったら、救いたい)


 夜鈴は、方術の陣に囚われた宇俊皇子に跪拝し、顔をあげて向き直った。「お手を失礼いたします」と言って幽鬼の手に触れるように手を伸ばす。

 星宇は妖力の受け渡しのためとか言って口づけてきたけれど、口づけが必要だなんて大嘘じゃないかな――。夜鈴は疑問に思ったが、その疑問は後回しだ。呪物に触れれば解呪できるように、相手に触れれば妖力は注げるらしい。今回は相手が幽鬼なだけに物体に触れた感触はないが、魂の手触りのようなものは感じる。

 力の道筋を確保できたと感じたら、夜鈴の中の力を押し流せばいい。

 ただちょっと、どの程度流せばいいか加減がわからないのだけれど……。


「いい塩梅で『止めて』って言ってくださいます? 芳静様」

「止めて」

「はや」


 夜鈴は皇子から手を離した。

 葵翠のときもそうだったが、朦朧とした様子の幽鬼に妖力を注ぐと、知性を取り戻したように顔つきも言葉もはっきりする。葵翠のときは力を入れ過ぎて「うわ! 生き返った!」と叫んでしまった。賢輪には「やりすぎです」と苦い顔をされたし。

 生き返ったかのように見えた葵翠は当然、宇俊皇子を探しに沼へ行った。しかしそのとき宇俊皇子の幽鬼はもう沼にはおらず、この世にいない母を求めて後宮を徘徊していたはずだ。ある程度人目に触れたのを見計らって、賢輪がまた皇子を捕まえてきた。なんかもういろいろひどい。この兄妹は血も涙もない。


「宇俊殿下、大丈夫ですか?」


 死んでいるのに大丈夫も何もないが。


〈母上は!?〉


 覚醒したかのような元気な声で、皇子が問う。


「え、えーっと……」


 夜鈴は困ってしまった。年老いて昨年亡くなりましたとも言えない。


〈母上に知らせなくては。葵翠が大変だったんだ。ぐったりしてて……どうしよう。どこにもいない。死んでしまったかもしれない〉


 皇子の死体が発見されたとき、葵翠はすぐそばで放心していたと聞いた。薬を盛られたか術で縛られていたかだろうが、死の直前、最後に宇俊皇子が見た葵翠は、死んだようにぐったりしていたのだろう。霧仙沼の幽鬼として朦朧としたまま結界に囚われていた五十年は、宇俊皇子にとって一瞬だったようだ。


「殿下、私は宮廷方士です。一緒に母后陛下のところへ参りましょう」


 夜鈴を押しのけて芳静が皇子の前へ出る。


〈連れて行ってくれるの〉

「もちろんですとも」


 芳静が、彼女の本性を知らない者にはやさしそうに見える華やいだ笑顔で、にっこりほほえんだ。



     *****



「幽鬼って宇俊皇子の幽鬼だけじゃなかったの!?」

「どうなってるのよ、念慈。どうなってるの!?」

「しらないわよう」

「あなた方術使いでしょ!」

「『もどき』よ!」

「役立たず!」


 菊花殿の妃嬪たちは再び騒乱状態になった。自分たちの中に幽鬼が混ざっていたのだ。今度は殺された皇子の幽鬼ではなく、殺した妃嬪の幽鬼だ。今は使われていない冷宮で自害したという遠修儀、葵翠――こんなの、まちがいなく怨霊ではないか。


「痛たたっ! 何するのよ。ほっぺたつねらないで」

「あなた幽鬼じゃないわよね?」

「失礼ね! そういうあなたこそどうなの?」


 普段から仲がいいとは言えない妃嬪どうしが疑心暗鬼に陥っている。幽鬼はおそろしいし妃嬪達は自分勝手だし、念慈は何もかも嫌になった。寵妃になんかなれなくていいからもう家にかえりたい。そう思ったのは念慈だけではないようで、「もういや……お母様ぁ」としくしく泣きだす妃嬪や「出ていくわ! こんなところ!」と怒り出す妃嬪が続出する。


 そして険悪な雰囲気が頂点に達しそうになったそのとき。

 菊花殿に再び救い手が現れた。


「洪昭儀!」


 洪昭儀は「大丈夫よ」と言うように軽くうなずき、「ついてらっしゃい」と言うように歩きだした。菊花殿の妃嬪たちは親鳥を追いかける雛鳥のごとく、小走りで洪昭儀について行く。外院(そとにわ)に面した回廊へ出ると、夜空に月が出ていた。回廊の吊り灯篭と月明りが照らしているのは、なぜか外院に勢ぞろいしている宮女と宮婢たち。


 念慈は一点を見つめている宮女たちの視線を追って、ぎくりとした。

 外院の真ん中にたたずんでいるのは、葵柄の襦裙の妃――冷宮の幽鬼だったのだ。どういうこと?と思い、洪昭儀を見ると、彼女はついっと門のほうを見やった。


 パタパタと子供が走って来る足音がする。


〈葵翠ー!〉


 甲高く彼女を呼ぶ声がする。


〈ああ、殿下!〉


 感極まったような怨霊の声。

 怨霊? 怨霊がこんな顔をするだろうか?

 こんな、心底ほっとしたような、安心と喜びに満ちた顔を?


 念慈は呆けたように葵翠の幽鬼を見つめた。霊魂とは思えないほどはっきり見えているのに、月明りの影も灯篭の明かりの影もなく、葵翠本人が淡く発光しているように見えた。まるで彼女だけ違う空間にいるかのようだ。ああこれが異界の存在かと、念慈は鳥肌の立つ腕をさすりながらしみじみ感じ入った。


 宇俊皇子の幽鬼がまっすぐ葵翠に駆け寄っていく。

 葵翠が皇子を抱き止めるようにしゃがんで腕を開く。

 皇子はなんのためらいもなくその腕に飛び込んだ。葵翠が涙を流しながら皇子を抱きしめ、その髪に頬ずりする。


〈死んじゃったかと思った。葵翠が死んじゃったかと思った〉


 菊花殿の妃嬪侍妾、宮女宮婢たちは固唾を飲んで、泣きじゃくる宇俊皇子とあやすようにその背を撫でる遠葵翠を見つめていた。


〈殿下、皇后様のところへまいりましょう〉


 やさしい口調で葵翠が言う。


〈母上はどこ。月輝殿にはいらっしゃらない〉

〈皇后様はお引越しされたのです。遠くではありませんから、葵翠と一緒にまいりましょうね。陛下もいらっしゃいますよ〉

〈父上はすこしこわい〉


 葵翠がふふふと小さく笑った。やさしい笑顔だった。皇子を抱きしめながら、洪昭儀を見て目礼する。洪昭儀が笑顔を返すのと同時に、二人の姿は月明りに溶けるように薄らぎはじめ、透けたと思ったらもう消えていた。



 あとはただ、敷石が月明りに照らされおぼろに光るのみだった。



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