22・菊花殿の怪異
正三品以下の妃嬪が暮らす菊花殿は、後宮最大の宮である。後宮の「皇帝の権威を示す」役割は、上級妃の住まう独立した殿舎よりむしろ、最も目立つ菊花殿が担っている。
壮大にして華美な殿舎には、宮廷貴族や地方豪族の思惑により入宮してきた令媛たちが、主上のお召しがありますように、いつか寵妃になれますようにと願いながら、美と才を競って暮らしている。
そんな菊花殿だが、今宵は大騒動となっていた。
菊花殿の妃嬪にはお手をつけない今上帝が誰かを召幸したとしても、ここまでの騒ぎにはならなかっただろう。皇帝によるお召しは、今はなくとも当たり前に想定されている事態である。
しかし死んだ皇子の訪いなど、誰も想像していなかった。
騒ぎの発端は、まじないの得意な妃嬪だった。侍女が夕餉を持ってくるのを待ちながら、彼女はいつものようにちょっとした霊符をつくっていた。「意中の相手が自分の夢を見る」霊符だ。効果のほどは確かめようもないが、大きな祭礼でもないかぎり夢の中くらいしか皇帝に自分を売り込む機会がないため、呪文を印す筆先にも力が入る。
ちょっとした霊符とはいっても、つくる際はそれなりに集中する。なけなしの霊力を精いっぱい研ぎ澄ましたとき、彼女は背後に異様な気配を感じた。
おそるおそるふりかえる。
白い袍を着た子供がいた。
房の扉は閉めていたはずなのに、なんの物音もしなかった。
「ひっ……」
反射的にずり下がろうとしたため几の上の霊符が落ちる。
青白い顔の子供は呪文の書かれた霊符を一瞥した。
〈おまえが方士?〉
ちがうと言いたかったが、声が出なかった。
方士ではないがこれくらいはわかる。
目の前の子供は――生身ではない。
〈方士でしょ? 霊符を書ける〉
「ち、ちが、ちがう……」
〈母上はどこ?〉
「し……しらない」
〈母上のところへ方士が連れていってくれるって〉
「しらない。私は方士じゃない!」
半泣きで叫ぶように言う。白い袍の子供は悲しそうに顔を歪めた。呪われるかと思って床に突っ伏し、あとはきつく目を閉じて体がガタガタ震えるに任せるしかなかった。
しばらくそうして震えていたが、一向に呪いにかかる気配はない。まじないの得意な妃嬪はおそるおそる顔をあげた。
房には誰もおらず、子供がいたあたりの床がびっしょりと濡れていた。
「き、き、き、きゃああああああああああ!」
菊花殿中に響きわたるような大声で、彼女は絶叫した。
彼女の絶叫を発端にしたかのように、夕闇が迫る薄暗い殿舎のあちこちで、白い袍の子供の姿が目撃された。
子供の姿が見える者と見えない者、母を探す声が聞こえる者とパタパタと走り回る足音だけが聞こえる者がいて、いっそう不気味さが増す。菊花殿は騒乱状態になった。
誰かが「宇俊皇子の霊」と察するまで、時間はそうかからなかった。後宮霧仙沼の悲劇を知る者は多かった。
本当に幽鬼であるならば、打つ手はひとつだ。
「洪昭儀をお呼びしなければ!」
下女が藤花殿へ走っている間、菊花殿の妃嬪侍妾たちは正庁に集合して震えていた。まじないの得意な妃嬪が幽鬼避けの霊符を書き、皆で手分けして四方の壁に貼りまくる。
「宇俊皇子の御霊は霧仙沼に囚われていたのではなかったの?」
「最近霧仙沼の近くに、謎の宮女がいたんですって。すごくきれいな宮女で、宇俊皇子の侍女だったって噂が……」
「ならそれも幽鬼じゃないの。いやー!」
「主上と洪昭儀と、例の新入りが霧仙沼の近くで野餐に興じたのって何か関係あるの?」
「あるかもしれないわ。新入りはともかく、洪昭儀は宮廷方士ですもの」
「皇帝陛下立ち合いの元に、皇子の幽鬼を浄化するためだった……とか?」
「ならはやく浄化してほしいわ。殺された皇子の幽鬼なんて……怨霊になってるかも」
「やめてえ!」
怨霊という言葉に一同が震えあがったとき、パン!と高らかに手を打ち鳴らすような音が響いた。一瞬あとに、四方に張り巡らせた幽鬼避けの霊符が、同時に全てはらりと落ちる。
「ひいっ!」
「お札が剥がれたあ!」
「いやー! 呪われる! うわぁんお母様ぁ」
剥がれた霊符におののき、妃嬪侍妾たちが一斉に正庁から走り出る。我先にと長廊を渡り外院へ出ると、落ち行く夕日と菊花殿の開かれた大門を背に、洪昭儀が胸の前で両手を合わせた姿勢で佇んでいた。
「ああっ洪昭儀!」
「たすけてください、怨霊が」
「守りのお札が全部落とされて……」
芳静が軽蔑まじりのあきれ顔で妃嬪達を一瞥する。
「霊符もどきはわたくしが落としました。雑音は邪魔」
「霊符もどき……雑音……」
まじないの得意な妃嬪だけはぐふぅと踏まれたような声を出したが、ほかの妃嬪たちは美しき宮廷方士の頼もしさにぽっと頬を紅潮させた。
「やはり、宇俊皇子の幽鬼なのでしょうか?」
「そのようね。霧仙沼の結界が解かれているわ。身罷られて五十年とはいえ、皇族の御霊を浄化の術で消し去るわけにはまいりません。宗廟へ導いてさしあげるべきですが――」
「導いてさしあげてくださいいい!」
「幽鬼となられたということは、現世に心残りがおありなのでしょう。まずは心残りを晴らしてさしあげないと」
「ど、どうやって?」
「わたくしにはわかりませんわ。ゆっくりと、時間をかけて、宇俊皇子の御霊と心を通じ合わせないことには」
芳静はにっこりと余裕のほほえみを見せたが、すぐにでも安心したかった菊花殿の妃嬪たちは、「ゆっくりと、時間をかけて」と言われて青ざめた。
「皇子の幽鬼は『母上のところへ方士が連れていってくれる』とおっしゃいました。洪昭儀ならすぐにでも、ご母堂の廟へお連れできるのでは……?」
まじないの得意な妃嬪が、気を取り直して芳静に問う。
「あなた、皇子の幽鬼と話をしたの?」
「は、はい。ほんの少しですが……」
「ふうん……」
まじないの得意な妃嬪を見つめ、洪昭儀はしばし考え込む様子だった。
*****
(この子使えるわ)
まじないの得意な妃嬪から話を聞いて、芳静は内心しめしめと思った。
彼女の名は関念慈、位階は正三品以下の最上位である婕妤だ。婕妤の位を授かるくらいだから、そこそこ家格の高い家の出身だ。幽鬼の姿をはっきり見ただけでなく、声を聞き会話もしたということは、おそらく生まれ持った霊力が強い。
位階もそれなりに高く、霊符をつくれる程度の霊力もあると認知されている念慈の目撃談なら、きっと噂の信憑性を高めてくれる。
これから流れるはずの、「宇俊皇子は葵翠に殺されたのではない」という噂の。
「宇俊皇子は葵翠に殺されたのではない」のなら、誰に殺されたのだ?という疑問が当然あとに続くわけだが、そこから先の舵取りは残念ながら方士の仕事ではない。真実の証拠固めは星宇まわりの文官たちがうまくやるだろう。皇族殺しは大罪だ。過去の事実であっても族誅の対象となり、一門失脚の材料になる。持っていて損はない切り札。
宇俊の幽鬼に「母上のところへ方士が連れていってくれる」と吹き込んだのは宮女姿の賢輪である。沼の結界を解いても宇俊が外へ出なかったら意味がない。人目のある場所に出向かせるための方便であり、宮廷方士が関わるための方便でもある。
「宇俊皇子が方士をお望みなら、わたくしがお連れするしかありませんね。元太皇太后、華萌様の廟へ」
「よろしくお願いします! 洪昭儀!」
「でも、肝心の宇俊皇子の御霊はどこにいらっしゃるのかしら?」
芳静の質問に、妃嬪たちが顔を見合わせる。
「お探しするしかありませんね。宇俊皇子のお姿を見かけたり、お声を聞いたりなさったら、わたくしに知らせてくださいませ」
(夜鈴に宇俊の幽鬼にも妖力を注がせるから、今宵彼女たちはもっとはっきり幽鬼を見ることになるわね)
宇俊皇子と、葵翠の幽鬼を。
芳静は、先ほど夜鈴に妖力を注入された葵翠の姿を思い出した。夜鈴が妖気を扱いやすいよう廃冷宮から葵庵跡地に場を移したら、未熟な喰呪鬼は加減ができなかったらしい。力が入り過ぎて幽鬼にしては過剰な実在感が出たから、宇俊皇子はもう少し幽鬼らしさを残す程度にとどめてもらいたい。




