19・ドヤ顔賢輪
芳静に命じられ、夜鈴が葵庵跡地であれこれ解呪の実験をさせられているちょうどそのころ。
梅花殿の宮女愛珍は、憧れの夜鈴の姿を一目見ようと、天幕のまわりをうろついていた。愛珍が位階を持たない寵妃、周夜鈴の愛好者であることは梅花殿の中では知られた事実であった。夜鈴は菫花殿からあまり出歩かず、姿を見る機会が乏しいこともあって、野餐というまたとない機会に宮女仲間たちは好意的に愛珍を送り出してくれた。
梅花殿は愛好活動――〈推し活〉に理解がある殿舎だ。これは主人である姜昭容の方針である。梅花殿では〈推し〉がいる者、〈推し活〉に適性がある者を積極的に採用しているため、殿舎全体の空気がそうなっている。
(ううう。だめです。主上のお越しとあっては警備がきつすぎて)
昨晩も今朝も、夜鈴の姿を見るどころか天幕に近づくこともかなわない。護衛の宦官に槍を持って「しっしっ」と追い払われること数回、それでも未練がましく遠くから天幕のてっぺんを眺めている。
(あの中に夜鈴様がいらっしゃる……。そして主上も)
ぐぎぎとなる愛珍である。もちろん、皇帝の寵愛を妬んでではない。
(夜鈴様……なんで主上なんかと)
妃だからである。そう突っ込んでくれる先輩宮女は今ここにはいない。
(夜鈴様には……夜鈴様には……)
くやし涙をにじませ上襦の袖口を噛みしめる愛珍。
(香月様がいらっしゃるのに!!!!)
それは愛珍の妄想の中の話である。それは愛珍にだってわかっている。頭ではわかっているが、感情がついていかないだけである。愛珍の妄想の中では、愛の桃園に暮らすのは夜鈴と星宇ではなく、夜鈴と香月なのである。
ちなみに芳静は夜鈴と香月を引き裂こうとした悪鬼であり、憎むべき敵役であった。
(主上がいるかぎり天幕には近寄れません……。うーん、帰り道に期待するしか)
愛珍はふぅとあきらめのため息をついた。木々のむこうの天幕から視線をはずし、小道のほうを見る。この小道は奥へ進むと幽鬼がいる沼へ出るらしい。夜鈴見たさで気味の悪さなどどこかへふっとんでいたが、今さらぶるっときた。
「あれ……誰か来ます」
沼の方向から誰か歩いてくる。もしや幽鬼かと一瞬ぞっとしたが、沼に出る幽鬼は子供だと聞いている。歩いてくるのは地味な襦裙姿の宮女だった。日よけのためか、披帛を頭から被っている。愛珍の前を通るとき、布の間から一瞬だけ訝しげな視線を向けられた。衣の質からして妃嬪ではなく愛珍と同程度の下っ端宮女だろうが、大人びた顔立ちの美しい女だった。
(わぁきれいな人。夜鈴様には負けますけど)
どこの殿舎の宮女だろう。美形に目がない梅花殿の先輩たちなら知っていそうだ。あとで訊いてみようと思いつつ、すらりと背の高い後ろ姿を見送る。
(沼のほうから来ましたね。あっちの方角にあるのはたしか……)
藤花殿。
そう思い当たった途端、愛珍の興味がすっと失せた。憎き洪昭儀のところの宮女など関わり合いになる気はない。そういえば顔立ちもどことなく芳静に似ていた。主人と侍女は似るのかもしれない。夜鈴と香月が、美しさの中にも親しみやすさがあるところがよく似ているように。
その後愛珍は、迎えに来た香月と夜鈴が笑いさざめきながら帰る姿を見ることができ、満足して梅花殿へ帰った。今日の収穫を興奮気味に先輩宮女に話したついでに、沼のほうから来た美人宮女の話もする。
「愛珍……その人たぶん、藤花殿の宮女じゃないわ」
なぜか青ざめながら、先輩宮女は言った。
「そうなんですか? 藤花殿のほうから来たのでそう思ったんですけど。どこの殿舎付きの人でしょう?」
「どこの殿舎でも局でもないのよ……」
「え?」
「とても美しい人だから、あなたがここへ来る以前、梅花殿が総力をあげて密かに調べたことがあるのだけれど……どこにもそんな宮女、所属していないの。さすらうまぼろしの美人宮女――後宮七不思議のひとつよ。きっと幽鬼よ。妖かもしれないわ」
「ひ……ひいいいいいい!」
*****
くしゅん!と、賢輪がめずらしくくしゃみを放った。
「どうした。風邪か?」
葵庵跡地から戻った星宇が問う。星照殿の、執務のためのいつもの房である。
「軽く花粉にやられました。外歩きをしたので。芳静に任せるには心配でしたし、妹は新しい玩具に夢中のようで」
「おまえまで夜鈴のことを玩具とか言うなよ」
「申し訳ありません」
「芳静が言ってたのは『素材』だったかな……。まったく方士ってやつは」
「妹ともども大変申し訳ありません」
大して反省している様子もなく、無表情で賢輪は言った。実際反省してないよなと星宇は思った。この兄妹は真面目だがどこかぶっ壊れているのだ。今に始まったことではない。星宇のことだって、妖でありつつ人でもある、面白い『素材』だと思っているふしがある。
しかも賢輪は、仕事のためならなんのためらいもなく女装もする。おそろしく似合っていることにはまったく無自覚である。
「何か分かったか?」
「宇俊皇子を殺したのは葵翠ではありません」
「いきなり核心だな。なぜ分かった」
「霧仙沼で、宇俊皇子の幽鬼に訊きました」
「……これはまた直接的な」
「当事者がそこにいるのに、訊かない手がありますか?」
当たり前のことだとでも言いたげな顔で賢輪は言うが、見知らぬ方士が近寄れば幽鬼は逃げるものである。そこを逃がさず囲い込み、思念を同調させ会話可能な状態に持っていく。そんなことは生半可な方士にできることではない。生半可な幽鬼にできることでもない。人と幽鬼の意志の疎通は、双方もしくはどちらかの「素質」か「努力」が要るのだ。人と怪異のいる次元は、通常ずれているのだから。
「で、宇俊皇子は誰に殺されたと?」
「木に縛り付けて水を掛けたのは、見知らぬ二人の宮女だと」
「見知らぬ宮女か。手掛かりにはほど遠いな」
「ですので、手掛かりをつくったらどうかと」
「手掛かりをつくる?」
「現在宇俊皇子の幽鬼は、霧仙沼に張られた結界に囚われています。結界を解き、幽鬼を解放します。目撃例が増えたらば、我々宮廷方士が大々的に出向く運びとなるでしょう。事を大きくして皇子の死について後ろめたいところがある者の動きを誘うのが目的です」
「なるほど。しかしそう都合よく幽鬼が出歩いてくれて、目撃例が増えるものかな」
「人目につくところへ誘導します。解かれるはずのない結界が解かれたことで、敵に焦ってもらいませんと」
「解かれるはずのない結界なのか?」
「皇子の死霊を妖魔から守るだけにしては、不必要なほどに頑丈です。まあ、解けますが」
賢輪が涼し気な顔でこともなげに言う。
長いつきあいの星宇にはわかる。これが賢輪なりの「ドヤ顔」であることが。
「宇俊皇子の霊魂は、なぜそんな頑丈な結界に囚われることになったんだ?」
「おとなしく死人に口なしとならなかったからではないですか。兇徒は黎家の血筋を舐めていますね。わかりやすく表に現れずとも、黎家は皆妖力持ちです。幽鬼と化す資質が存分にある。主上もお気をつけください。もし弑逆されたら魂がなかなか昇天しないかもしれません」
「天寿をまっとうできるように努力する……」
星宇は天を仰いだ。




