13・夢の葵翠と文の葵翠
「遠葵翠のことが書かれた妃嬪の文や日記についてですか」
「そうそう。先日あなたがちょこっと話してくれたようなお話をもっと聞きたくて。このままじゃ、何も知らずに洪昭儀に手伝わされて、葵翠様の魂を浄化しちゃいそうで」
「私も詳しく知っているわけではないのですが……。でもうれしいです。私も気になっていて」
陽だまりのような愛らしい笑顔で喜春がほほえむ。桜綾のニヤッと悪そうな笑顔と対照的だ。いい人そうだなあと夜鈴は思った。
「実家の後ろ盾なく寵愛によって高い位を得た妃嬪は四方八方から妬まれるものですが、遠修儀は多くの、とりわけ下位の妃嬪侍妾に親しまれていたようです。ゆえに私的な文のやりとりも多く、彼女を偲んで文を保管しておく妃嬪も多く、葵翠の記録は数多く残っています。非公式ですが」
「ふんふん。なるほど」
「下級妃の私的な手紙など価値のないものです。私のような酔狂な人間くらいしか集めたりしませんから、ほうっておいたら時のまにまに消えていった記録ですね。私も最初、葵翠についてとくに気にしていたわけではないのです。宇澄国後宮の歴史の中で、悲惨な最期を遂げた妃嬪は彼女だけではありませんから。ただ、手紙の数が多いので、自然と私の中で遠修儀葵翠像が出来上がっていったのです。それこそ、物語の登場人物のように」
喜春はそこで言葉を切り、遠くを見つめるような顔をした。
「世話好きな女性だったようです。当代の皇帝は貴族に勧められるがまま、次々と令媛たちを入宮させていました。公的なことは皇后が、身の回りの細々したことは遠修儀が、新入りの妃嬪の面倒を見て後宮はうまく回っていたようです。皇后と遠修儀の仲も傍目には良好だったそうです。それだけに、事件の衝撃は大きかったのですが――」
「皇后と葵翠様は仲が良かったんですか?」
「双方の心のうちはわかりません。しかし、下位の妃嬪や宮女の目には良好な関係に見えたようです。もっとも、皇后以外の上級妃はわかりやすく遠修儀を妬んでいたようですが……」
喜春が困り顔で肩をすくめる。つまり上級妃たちは葵翠に意地悪をしていたんだなと察し、夜鈴は我がことのように喉の奥がひゅっと苦しくなった。菫花殿周辺には今も呪物が仕込まれる。呪詛って皇帝のお通りごとにもれなくついてくるものですかと問いたいくらいだ。
「で、でも葵翠様には味方も多かったのですよね? 面倒みてあげた若い妃嬪とか」
「はい。下位の妃嬪侍妾の多くが遠修儀の冷宮入りを嘆き、自害に衝撃を受けていました。後宮の水面下で、表に出せない憶測が行き交っていたようです。そういった文はほとんど残っていませんが。おそらく、読んだら燃やしていたのでしょう」
「表に出せない憶測って……」
「真犯人についての憶測でしょう」
「真犯人――」
「遠修儀の罪を受け入れられない妃嬪侍妾たちは、事件には裏があると思いたかったのでしょうね。正直、私も同じ気持ちなのですよ。今さらどうなることでもありませんが。しかし、まだ魂が現世にとどまっているのでしょう? 遠修儀には何か思い残すことがあるのではないかと」
ここからだして。
葵翠の幽鬼は夜鈴にそう言った。
「そうですね……。あのね、この前あなたに話をきいたせいだと思うんですけど、わたし夢を見たんですよ。葵翠様の。わたしが下着の襦袢姿で泣きながら歩いてたら声かけてくれて。葵翠様の小さいかわいい庵に招いてくれたんです。それで着るものくれて、西瓜も切ってくれて。西瓜、甘くておいしかったな。ん? あの夢、味があった? 夢って味がつくんですね……」
廃冷宮で無理矢理眠らされたときの夢を思い出しながら、夜鈴はぽつぽつと語った。あの状況でよくあんな優しい夢を見たものだ。
「夢の中で葵翠様、わたしのこと妹妹って呼んでくれたなあ……」
夢の話なんて笑われてしまうかなと少し照れつつ喜春を見ると、彼は驚いたようにぽかんとしていた。
「どうしました?」
「……それは、夜鈴様がご覧になった夢ですか?」
「そうですよ」
「その夢にそっくりな逸話が書かれた文を持っているので。意地悪な妃嬪に衣を脱がされた新入りの宮女を庵に招いてなぐさめたという内容です。――その文は、遠修儀が書いたものなのです」
「えっ」
「偶然でしょうが、不思議なこともあるものですね」
(ほんとうに、あの夢みたいな人だったのかも)
涙を流す夜鈴の頭をやさしく抱いて、妹妹と呼んでくれるような人。
窓から見える立葵、西瓜の甘さ、夏らしい軽い香の香りと夜鈴を包むやわらかな腕――夜鈴の中で葵翠の存在が、ほのかな実在感を持って立ち上がってくる。
もう死んでしまった人だ。
こんなふうに望んでもしかたないけれど――。
「わたし、助けたかったな。葵翠様を。いろんな苦しみから……」
夜鈴のつぶやきに喜春はうんうんとうなずいた。そしてその文を貸してあげましょうと言った。




