12・夜鈴の立ち位置
葵翠の幽鬼を浄化してしまう前に、もっと葵翠のことを知りたい。
葵翠について知るための伝手は、夜鈴には今のところ桜花殿にしかない。
「桜綾様の書の弟子っていう宦官……喜春だっけ。あの人に話を聞きたいんだよなあ。香月、あの人っていつも桜花殿にいるの?」
「桜綾様の側仕えですから、ほぼ毎日通ってきてますね。仕事しに来てるのか書画のお稽古に来てるのかよくわからない人ですけど」
「じゃあ桜花殿に行けば会えるのか……」
「でも夜鈴様、正二品の上級妃のところに今すぐ『あそぼー』って押しかけるわけにもいかないですよ」
「だよねえ。わたし無階だしね。うう、また文かかなきゃ駄目か……」
字の読み書きは七歳までしかまともに学んでおらず、後宮に来てから手習いを再開したものの、まるでおぼつかない夜鈴である。香月は夜鈴よりはましだが、彼女も食うや食わずの暮らしが長かったため、妃嬪付きの侍女の水準にはなかった。
菫花殿の文化水準は後宮基準では非常に低いのである。ただ、桜花殿の文化水準がとてつもなく高いため、逆に「気にしても無駄」という勢いでいけなくもない。
「夜鈴様は周家のご令媛ですから、ただの宮女だとは誰も思っていませんけどね。どうして主上は夜鈴様に位階を授けてくださらないのでしょう……。四夫人の座なら全部空いてるじゃないですか」
「四夫人なんて皇后のすぐ下でしょ。重い~。そんな高級な席いらない~」
「芳静様より上の位階なので、命令されなくなりますよ」
「それだけはちょっと魅力的かな……」
でも芳静は皇帝にも言いたいことは言ってそうだし、夜鈴の位階がどこになろうが大して変わらない気がする。洪家は政治的にはおとなしい家らしいが、呪術という凶悪な武器を持っているので、どこの貴族も畏れているらしい。
「位階ねえ…………ん? そうだ!」
「位階がどうかされましたか、夜鈴様」
「周家がどうとか置いといて、わたし今、身分的には妃嬪でもなんでもないふつうの宮女なんじゃない?」
「どなたもそんなふうに思ってませんってば」
「人がどう思うかは置いといて、正式な立場はいっぱいいる宮女の一人でしょ。香月は気軽に桜花殿の宮女のところへおしゃべりしに行くよね。わたしだって宮女のところになら行ってだいじょうぶなんじゃない? 桜綾様に会うわけじゃなければ」
「ええっ。ちょっと待ってください」
「そうだよ。桜花殿の宮女のみなさんに頼んで、喜春さんに会わせてもらおう」
というわけで、夜鈴はさっそく桜花殿の厨近く、宮女たちが憩うための小房に来ている。極力質素な襦裙を着てきたつもりだが、桜花殿の宮女たちはとまどいを浮かべて夜鈴を遠巻きにしている。つい先日、主人の客人として訪れた妃嬪が宮女控えの間にちょこんと座っているのだから、そりゃあ少しは驚くだろうとは思うが、そんなに引くほどのことでもないのにと夜鈴は思った。
「ちょっと喜春さん呼んできてもらうだけなので、みなさんどうぞお仕事続けてください」
「……」
精一杯にこやかに言ってみたものの、桜花殿の宮女たちは固まったままである。
「なんならわたしも何かお手伝いを……」
「夜鈴様、夜鈴様」
香月が居心地悪そうに夜鈴の袖を引く。
「あ、桜花殿の宮女のみなさんは教養がおありだから、わたしなんかが手伝えることはないのか……」
この香月がついていけなかったくらいなのだ。美的感覚の鋭い桜綾のお気に召す繊細な仕事など、下働きの奴婢同然だった夜鈴にできるはずがない。
「料理の下ごしらえとか洗濯とかなら得意なんだけど。薪割りも風呂焚きもそこそこ」
「夜鈴様ーっ!」
「さすがにそれはやらないくらいの心構えはあるよ。でもわたし、はやいんだけどなあ、そういう仕事」
手際よくやらないとぶっ叩かれていたので、嫌でも要領がよくなるのだ。ぶっ叩かれるのはもうごめんだが、身体になじんだ家事がなつかしくなることはよくある。妃嬪の日常なんてやることがなくて暇なのだ。
「よろしければ画冊などいかがでしょうか」
夜鈴が退屈していると見てとったのだろう。年嵩の宮女が山水画の画冊を差し出してくれた。「ありがとう」と言って開いてみると、墨の濃淡でこの世のものとは思えない絶景が描かれている。画に添えられた詩はちんぷんかんぷんだが、細かな筆づかいで描かれた木々と山々が霧に溶け込む様は、人より仙が住むにふさわしい幽玄の世界であった。
「すごい。こんなきれいな画、はじめて見た……」
周家にも掛け軸や屏風はいくつも飾られていたが、金箔などが張られた極彩色のごてごてした画ばかりだった。夜鈴は息を呑んで手元の繊細な画に見入った。
うしろで香月がほっと安心したような息を吐いている。愛想よくするよりおとなしくしていたほうがいいんだなと、夜鈴はようやく理解した。
そんなこんなで楽しく画冊を眺めていたら、パタパタと急いたような足音がした。房の入り口を見やると喜春がやってきたところだった。あわてた顔をしている。
「夜鈴様、申し訳ありません! 今すぐ桜花殿の敷地から出ていただきたい!」
「えっ? あっ、やっぱり突然来ちゃまずかったですか? 安昭媛怒ってらっしゃいます?」
「安昭媛は夜鈴様を歓迎しておられます。昭媛ではなくて主様が――」
「主様?」
桜花殿の主は安昭媛こと桜綾では?
「あっ――いえ。その……桜鬼様が、あの……」
夜鈴はピンときた。桜鬼は幽鬼である。幽鬼は妖力でもって存在している。妖力を持つ者が出て行けということは、妖気を喰う「喰呪鬼」を遠ざけたいということではなかろうか。前回模特として来たときに、夜鈴の正体が桜鬼にバレたのかもしれない。
「わかりました」
夜鈴はぴょこんと立ち上がり、画冊を宮女に返すとすたすたと裏口へ歩を進めた。
「いきなり不躾に申し訳ありません」
桜花殿の広い園庭から走り出て、竹林の端にしつらえられた竹の榻に香月と二人で腰を下ろす。喜春は夜鈴の前に膝をつき、頭が地面につかんばかりに深く拝礼して詫びた。
「だいしょうぶですよー。どうか顔をあげてください」
「いつもは穏やかな桜鬼様が、なぜか悪霊のごとく荒ぶってこられて……」
喜春は女の子のような愛らしい顔を青くして、ぶるりと身を震わせた。
「悪霊みたいにおっかなくなって、わたしを桜花殿から外に出せと?」
「はい。しかし理由がわからないのです」
「だいじょうぶです。なんとなくわかります」
「夜鈴様はおわかりに? どのような理由かお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
「わたしの口からはちょっと……。宮廷方士のえらい人にきいてみてください」
妖である夜鈴は宮廷方士の管轄下にあるらしいので、夜鈴は判断を筆頭方士の賢輪に任せることにした。
(喰呪鬼って幽鬼からけっこう煙たがられてるのかなあ……)
あやかし界での喰呪鬼の立ち位置がわからない。後宮内での自分の立ち位置もわからない。桜花殿の宮女たちの様子からすると、「位階がないからただの宮女」ではどうやら済まされないらしい。寵妃だと思われているからか、周家の令媛だと思われているからか。というか、貴族社会での周家の立ち位置からして夜鈴にはよくわからないのだが。
(いろんな人と関われば関わるほど、わたしって何なのかわかんなくなってくるなあ……)




