9・夢の中のおねえさま
さっきまで宝宝の金色の瞳を見ていたのに、なぜか夜鈴は周家の裏庭にいた。周家では襤褸ばかり着ていたはずだが皇帝にもらった綺麗な晴れ着を着ているから、これはきっと夢だ。
そう、これは夢。夜鈴をみつけた妹の麗霞がつかつか歩み寄ってきて夜鈴の襟首をひっつかみ、「返しなさいよ! わたくしの襦裙よ!」と叫んで、夜鈴の襦裙を無理に脱がそうとしているのも、夢のはずだ。あの日に戻るなんてことがあるはずがないのだから――。
「ちがう。これは主上から賜った襦裙で、あなたのじゃない」
「入宮するのはわたくしだったはずよ! なんでおまえなのよ! おまえなんかが皇帝陛下の妃嬪になるなんておかしいでしょ。穢れた妖魔のくせに! これはわたくしのよ。脱ぎなさい!」
「脱がない! これはわたしの……」
「おまえのものなんかこの世に何もないわ!」
わたしのものなんか、この世に何もない――?
「わたくしの襦裙を脱ぎなさい!」
「嫌! これは麗霞のじゃない!」
麗霞のじゃない。それは確かだ。
でも果たしてこれは、自分のものだろうか?
宇澄国の皇帝が、後宮の夜鈴に与えるものは、夜鈴のものと言えるだろうか?
だって夜鈴はいつか、妃嬪の座を捨て後宮を去るつもりでいるのだから。
「おまえの居場所なんかどこにもないんだから! 周家にもないし、後宮にだってないんだから! あやかしの村にだっておまえの家なんかない。おまえのことなんか誰も受け入れない。妖なのか、人間なのか、中途半端なおまえの居場所なんて、どこにも、ない」
それはまるで呪いの言葉のように夜鈴の心に穴をあけた。
夜鈴は縛られたように動けなくなった。
中途半端なわたしの居場所なんて、どこにも、ない――。
固まって動けなくなった夜鈴から、麗霞が悠々と衣装を剥ぎとる。皇帝から賜った美しい晴れ着は麗霞の手に渡り、夜鈴は下着で放り出された。場所はいつのまにか周家の庭から後宮に変わっていた。後宮の、立葵が咲く真昼の小道を泣きながら歩く。菫花殿に向かっているはずなのに、歩いても歩いても、菫花殿の小ぶりの殿舎がどこにも見えない。衣装を剥ぎ取られたことよりも何よりも、菫花殿にたどり着けないのが悲しくて、夜鈴は子供のようにべそべそ泣いた。
「どうしたの? そんな格好で」
ふいに物柔らかな女の声がした。夜鈴が顔をあげると、腕に大きな西瓜を抱えた女がびっくりした顔でこちらを見ていた。見たことのない若い女だ。歳の頃は二十二、三、芳静と同じくらいだろうか。豪奢というほどではないが上等な、細かい刺繍のある愛らしい襦裙を着ていて、儚げな美しい顔立ちをしている。小間使いの宮女には見えず、夜鈴の知らない妃嬪の一人かと思ったが、なぜ西瓜を抱えているのだろう?
「ああ、これ? 私の庵の裏に西瓜畑があるの。食べごろだったから沼の水で冷やしておいたの。今年の初物よ」
夜鈴が西瓜を見ているのに気付いた女はそう言ったが――庵? 西瓜畑? 沼? 謎は深まるばかりだ。
「私の庵はすぐそこよ。いらっしゃいな」
女はやわらかくほほえむと、夜鈴の横に並んで促すようにゆっくり歩き始めた。
「新しく入宮した方?」
「――はい」
入りたてほやほやではないが、妃嬪の中では夜鈴が一番新入りのはずだ。でもこれは夢のはずだから、真面目に考えて答える自分がおかしい。
「だいじょうぶ。意地悪な姐姐ばかりではないわよ」
場面はいつのまにか房の中になっていた。一房二房の小さな建物なのか、開け放った窓と窓の間を気持ちの良い風がすうっと通り抜ける。大きい窓からは色とりどりの立葵の花が、反対側の小さい窓からは青々とした畑が見えた。片隅に小さな几があって、硯と団扇と、なぜか蔓と葉と黄色い花のついた西瓜が乗っている。
(居心地のいい房だな……)
菫花殿も装飾は控えめだが、ここはもっと質素なしつらえだった。それでも菊花殿のような合同で暮らす大きな宮ではなく独立した庵なのだから、この妃嬪が特別待遇なのはわかる。
夜鈴がきょろきょろしつつそんなことを考えていると、肩にふわっと布が掛けられる感触があった。
「とりあえず、それを着てね」
肩に掛けられたのは上襦で、下裙もそっと差し出される。夜鈴は衣装を剥ぎ取られたままだったのだ。
「さしあげるわ」
小さく切った西瓜を盛った器も、ことんと差し出される。赤くてみずみずしくておいしそうだった。
「いただきます」
「あっ、襦裙の話よ?」
「えっ」
「さしあげるわ。もちろん西瓜も」
夢だからか、夜鈴はいつのまにか差し出された襦裙を身にまとっていた。西瓜をしゃくりと噛みしめたら、甘さがひろがるのと同時に涙がぽろぽろ溢れ出てきた。
涙を溢れるにまかせていたら、女にふわっと頭を抱かれた。
軽やかな香の香りが鼻をかすめる。
間近で見る女の帯の刺繍は、季節に合った葵の意匠だ。
「だいじょうぶよ、妹妹。意地悪な姐姐ばかりじゃないわ」
女は夜鈴を妹妹と呼び、さっきとおなじことを言った。そういえば、後宮では妃嬪どうしが姉妹みたいに呼び合うんだっけ、へんなの……と思いつつも、妹妹と呼ばれるのはけっこういいなとも思った。
ほかの妃嬪から呼ばれるのは嫌かもしれないけど、この人からなら、すごくいいな……。
「……お名前をお聞きしてもいいですか?」
夜鈴の問いに、女はにっこり笑って答えた。
「葵翠よ」
夜鈴が息を呑むと同時に、バン!と勢いよく扉が開くような音がして、額にビリッと衝撃が走った。




