7・葵翠と話がしてみたい
廃冷宮の幽鬼から逃れたと思ったら、桜花殿の幽鬼と会うはめになった。さすが二百年の歴史ある後宮である。あっちもこっちも怪異だらけだ。
以前桜花殿に来たときも、夜鈴は幽鬼らしき気配を感じていた。しかしその幽鬼が主公認の存在で、引き合わされることになるとは思わなかった――。
「おい、桜鬼。聞こえてるなら出てこい」
桜花殿の人気のない小さな奥院、枝垂桜の古木の前である。ごつごつした幹は二人掛かりでも抱えられないくらい太く、しなやかに垂れ下がる枝は緑に覆われ風にさらさらとゆれている。
「桜鬼って名前の幽鬼なんですか」
奥院をぐるりと囲んだ外回廊から、夜鈴は桜綾の背に隠れておっかなびっくり枝垂桜を見た。
「いいや。桜にとり憑いておるから、勝手にそう呼んでいる。生前の名は呼ばれたくないらしくてな」
「生きてたの、いつごろの人なんですか?」
「二百年前、建朝前後らしい。この樹にとり憑いたのは、後宮ができたころだそうだ」
「なんでまた桜の木に」
「本人に訊け。――桜鬼、出てこんか。聞こえないのか?」
「幽鬼って呼べば出てくるものなんですか……」
「こいつはわりと出てくるんだが、今日は気がのらないようだな。人見知りする奴でもないと思うが、まあ私も奴のことはよう知らん。私もここへ来てまだ一年足らずだからな」
星宇が即位したのが昨年だから、桜綾が後宮入りしたのも同じころなのだろう。
(わたしが妖魔だから出てこないとか……。あり得る)
夜鈴はなんとなく納得した。もし桜鬼に妖魔だと勘付かれているなら、桜綾にバレるのは時間の問題な気がするが、桜綾にならバレても問題ない気もする。幽鬼と普通につきあうような人であるからして。
「しかたない。あとで出て来たときに葵翠のことを訊いておいてやろう」
「ありがとうございます」
「そなたもさっさと良い位階をもらって、芳静ごときに好きに使われずに済むようになるといいな」
「……」
好きに使ってるのはあなたもですからね?という言葉を夜鈴はぐっと飲み込んだ。
今日の模特業は、まだまだ終わりそうにない。
「疲れた~。桜綾様も人使い荒いよ……妖だけど」
「長時間お疲れ様でした、夜鈴様」
香月に支えられながら、帰りの輿からよろよろと降りる。模特として長時間姿勢をとらされ、すっかり肩だの腰だのが凝り固まってしまった。夜鈴が模特をしている間、香月は元同僚と縫物などをして過ごしたらしい。うらやましい、そっちに回りたかったと夜鈴は思った。縫物はけっこう好きなのだ。
「すっかり夕方ですね。夕餉のしたくを申しつけていってよかったです。もう準備してくれているようですね」
厨から羹を煮るよい匂いが漂ってくる。後宮には宮人の食膳を供する尚食局があるが、冷えた膳しか供されないため、個別の殿舎に暮らす妃嬪は信頼する者に食事を任せるのが普通であるらしい。菫花殿では香月が仕切ってくれている。
「ちょっと様子を見てきます」
夜鈴は桜花殿の幽鬼の話をしたかったが、責任感の強い香月はぱたぱたと厨へ向かってしまった。しかたない、夕餉のときにでも話そうと、自分の房に足を向ける。
閨に入ると、臥牀の横に新しい夜着が掛けてあった。洗い替えかなと思っただけで、着るものに興味のない夜鈴は大して気にとめなかった。披帛や簪などを置き身軽になると、夕餉に胸をおどらせてうきうきと房を出た。
ひょっこりと厨をのぞくと、香月が羹の味見をしていた。
「味見?」
「毒見ですよ」
香月が笑って答える。夜鈴は「毒見」という言葉が好きではない。誰かが毒見をしなければならないことが嫌だ。しかしそんなことは口に出せず、なんとも曖昧な顔をしていると、香月が「立派な鯛をいただいたので、具は鶏から急遽変更です」と笑みを深めて言った。皇帝から食材を賜るのはしょっちゅうなので、これも夜鈴は気にとめなかった。鯛おいしそうとごくんと喉を鳴らしただけである。
とろみをつけた鯛の羹はそれはそれは美味しかった。
夕餉をいただきながら、香月に喜春から聞いた話と枝垂桜の幽鬼の話をする。
「奥院は、新入りのわたくしは立ち入り禁止だったのですよ。いわくつきの桜の古木があるとは聞いていましたが。いわくつきというか、幽鬼つきだったのですか」
「そうみたい。姿は見てないけど。ていうか、幽鬼はもういい……」
昨日見た葵翠の幽鬼を思い出してしまい、夜鈴の湯匙を持つ手が止まる。自分で自分を刺したと聞いたが、あんな血塗れになるまで何ヵ所も自分の体を――と思うと、葵翠の絶望の深さが恐ろしくなった。
葵翠がもし本当に、誰かに罪を着せられたのだとしたら。そのせいで皇帝の寵愛を失い、廃妃となって冷宮に閉じ込められたのだとしたら……。
「夜鈴様、どうされました?」
手を止めた夜鈴を気づかうように、香月が顔をのぞきこんでくる。
「幽鬼はもうやだけど……葵翠様のことは気になる。葵翠様の幽鬼、『ここからだして』って言ったんだよなあ……」
結界を張られた冷宮から出て、葵翠の魂はどうしたいのだろう。
恨みを晴らしに行きたいのだろうか。それとも愛する男のところへ行きたいのだろうか。葵翠が愛した宇豪はとっくに身罷っているけれど、宗廟へ行けばその魂に逢えたりするのだろうか。
それともただ、どこかへ消えてしまいたいだけなのだろうか――。
市井で見いだされ、皇帝に愛され、後宮で苦しんで、非業の死を遂げた哀れな妃。
葵翠は罪を犯したのだろうか。本当に皇子を殺したのだろうか。殺したのだとしたら、冷宮で何を思ったのだろう。殺してなかったのだとしたら、何を思ったのだろう。
「こわいけど、わたしやっぱりもう一回廃冷宮に行ってくる」
ふっくらとした鯛の白身を見つめ、夜鈴は静かに言った。
「夜鈴様……」
「だって芳静様に任せたら、さっさと浄化しちゃうでしょ。任務だとしか思ってないんだから、あの人」
「そうですね」
香月はくすっと笑った。
「夜鈴様はおやさしいですね」
「ううん、そんなことない。気になっちゃうだけ。皇帝の寵愛を得るって、どういうことなのか。うれしいのかな。誇らしいのかな。妬まれることを差し引いても、しあわせだったこともあるのかな……」
膳を見ていた夜鈴は顔をあげた。
「わたし、葵翠様と話がしてみたい」




