6・遠修儀 葵翠
翌朝、芳静が迎えに来たらなんと言って同行を断ろうかと夜鈴が悩んでいると、芳静より先に桜花殿の宮女が文をたずさえてやってきた。惚れ惚れするほどの麗筆でしたためられているのは、安昭媛こと桜綾からの「画の模特をやりに来い」との呼び出しだ。
夜鈴はありがたく呼び出しに応じることにした。血塗れの幽鬼と対面するくらいなら、たとえ半裸にされたって画の模特をやるほうがずっとましだ。芳静は桜綾と仲が悪いらしいが、位階はともに正二品、芳静のほうが上とはいえ、大きな差があるわけではない。権門である安家出身の妃を芳静だって無視するわけにはいかないだろう。
桜綾は輿まで回してくれた。夜鈴はありがたく輿に乗り込み、香月を伴って桜花殿へ向かった。
「ほーん。そんなことが。あいかわらず自己中な女だ」
麻紙にさらさらと筆を走らせながら、独特の少しかすれた声で桜綾は言った。低めの声といいすっとした中性的な顔立ちといいすらりとした長身といい、襦裙をまとっていなかったら桜綾は宦官に見える。香月は別の房に退き、桜綾が「書の弟子」と言っていた宦官がそばについている。童顔の彼のほうが女の子に見える。書の弟子は画の弟子にもなったらしく、桜綾の手元を真剣に覗き込みながら自分も筆を走らせていた。
「私の線ではなく模特を見ろよ」
「はいっ」
次は襦袢一枚でと注文をつけられていた夜鈴だが、「弟子」の宦官同席のため薄着は免れた。なんなら彼にはいつもいてほしい。まとう空気がふんわりしていて、桜綾の癖の強さを和らげてくれるから。
それにしても、好き勝手やるために後宮入りした桜綾に「自己中」と言われてしまうとは、芳静も大概である。夜鈴が特異な妖であることは伏せて話したから、新入りの夜鈴に自分の業務を手伝わせるめんどうな上級妃に思えただけかもしれないが。
「洪昭儀は廃冷宮の幽鬼を浄化してしまわれるのですか……」
自分の画に目を落としながら、「弟子」がぽつりと言った。
「そう言えば喜春、おまえあの廃妃は冤罪ではないかと言っていたな」
「――冤罪?」
夜鈴はうつむいた姿勢をとっていたが、思わず顔をあげた。
「ええ。僕、昔の妃嬪の日記や文を集めているのです。手跡の変遷を研究していて。筆跡にも流行があるのですよ。女文字はとくに」
「へえええ」
彼のことは趣味人と聞いていた。たしかに、めずらしいことに興味を持つ人だ。
「遠修儀こと遠葵翠が冷宮入りしたころの文も数多く手元にあるのですが、下位の妃嬪の多くが遠修儀の罪を信じていなかったのです。濡れ衣を着せられたのではないかと訝しんでいる文書もあって――。皇帝の寵が厚かった遠修儀は高位の妃には邪魔者扱いされていましたが、下位の妃嬪侍妾には親しまれていたようです。巷で皇太子に見初められた方ですからね。容姿のみならず人柄もよかったようです。亡くなられた宇俊皇子もなついておいでだったようで」
「えっそんな……」
「寵妃であるのに質素な方で、贈答品も布地や穀物など小分けできる品ばかり望んで、実家が貧しい宮女や宮婢に分け与えていたそうですよ。そんな方が幼い皇子を殺害するだろうかと、当時の後宮でささやかれていた様子です。とはいえ、表には出なかったようですが。庇ったら上級妃がいい顔しませんからね。高位の妃に睨まれたら、後宮で平和に暮らしていけませんから」
「……」
「罪を着せられた上に怨霊として浄化されてしまうとしたら……哀れですね」
夜鈴が言葉を継げずにいると、「弟子」こと喜春は悲しそうに言った。本当にそうだとしたら酷い話である。
「夜鈴、気になるのか?」
黙り込む夜鈴に、桜綾が筆を持つ手を止めた。
「そりゃあ……。だって、姿を見ちゃいましたから。無残な姿でしたよ。胸から下が血塗れで……。あんな死に方って……」
「濡れ衣を嘆いての自害だとしたら、今となっては立派な怨霊だと思うが。五十年近く経っても消え去らないとは、相当恨み深い幽鬼だぞ。幽鬼の気を喰いに妖魔が湧いたっておかしくない」
「幽鬼がいると妖魔が湧くんですか!?」
「気が満ちればいろいろ湧くさ。悪気なら妖魔が湧く。そういうのは芳静のほうが詳しいだろ、本職なんだから」
「やっぱり祓うしかないんでしょうか。罪を犯してなかったとしても」
「事実が気になるなら尋ねてみるか? 五十年前の後宮を知る奴に」
「えっ。なにか知ってそうなお年寄りがいるんですか?」
「年寄りじゃない」
「五十年前を知ってるくらいなら、今はもう老人でしょう?」
「いいや」
桜綾はおもしろがるように、にっと笑った。
「見た目は若い男だな。桜花殿にだって幽鬼はいるのさ」




