2・亡き皇子の怨念の沼
「後宮って広すぎない……? もっと敷地小さくして、隅までちゃんと管理したほうがよくない……?」
夕刻、藤花殿からの帰り路。夜鈴と香月は淀んだ沼のそばを通った。沼の周辺は手入れされた気配がなく、木々が鬱蒼と生い茂っている。空を覆うような枝葉を見上げて、夜鈴はぶるっと身をふるわせた。
「……香月、もっと明るい道通らない?」
「そうですね……。引き返しましょうか」
近道かと思いこの道を選んだものの、二人はさっそく後悔していた。薄暗いし、沼は不気味に濁っているし、人の気配がまったくない。
しかし、人の気配はないのに、人ならざるものの気配はあるのだ……。
夜鈴は霊気や妖気がわかる妖の身が厭わしくなった。香月は気付いていないようだから、何も言わずにさっさとここを離れるに限る。そう思って足をはやめたそのときだった。
「夜鈴様、なにか聞こえません……?」
「聞こえないっ、聞こえないよっ」
「子供の泣き声のような……」
「気のせいだから! 立ち止まらないで、香月」
「さむい、さむいって言ってません? 変ですね、夏なのに。沼に落ちて濡れたのでしょうか」
「いないでしょ、後宮に子供なんかいないでしょ」
「でもほら、なんだか切実なかんじです。一応確認したほうが……」
沼のほうへ足を踏み出そうとする香月の腕を夜鈴はぐいっとつかんだ。
「香月、行っちゃだめ」
「なぜですか?」
「うう、言いたくなかったけど……。それ、幽鬼の声だから」
夜鈴の言葉に、香月はさーっと青ざめた。
「香月に聞こえるくらいだし、思念がかなり強いっぽい。沼のまわりに結界が張ってあって――――たぶん、入ったらまずいやつ」
「も、もしかして、噂に聞く後宮で殺された皇子の霊でしょうか」
「そんなことがあったの!?」
「何十年も前の話らしいですけど……。ひっ! まだ聞こえます!」
「ここにいちゃだめ! 逃げよう、香月!」
二人は一目散に沼から離れた。
「それはおそらく、宇俊皇子の幽鬼だろう」
菫花殿、夜鈴の閨房である。妃嬪の閨に来駕した皇帝がいる。にもかかわらず、閨事がはじまる気配はない。まったくない。絹の褥は空のまま、今上帝黎星宇と妃である夜鈴は床に腹ばいになって向き合い、遊戯盤に駒を並べている。
西方帰りの臣下によってもたらされた珍しい遊戯盤であり、夜鈴の最近のお気に入りである。知識と経験が要る碁とはちがい、これなら夜鈴も星宇に勝てるのだ。本日の戦績は一勝一敗、もう一戦して決着をつけようとなったところで、夜鈴が今日の出来事を語った。
「宇俊皇子、ですか」
「かれこれ五十年ほど前か。立太子を目前にした宇俊皇子は、東宮の主となる前に殺められた。ここ後宮でな」
「殺されたんですか? 誰に……」
「当時の皇帝の、寵妃だった女に。雪の降る日に半裸で木の幹にくくられ凍死した。あの沼のほとりでな。まだ七歳だった」
星宇はそれだけ簡潔に語ると、もうおしまいとばかりにきつく唇を引き結んだ。夜鈴もそれ以上は訊かなかった。苦手なのだ。その手の暴力的な話が。
「もう寝るか。決着は今度にして」
青ざめた夜鈴を気づかったのだろう。星宇が駒を片付けはじめた。
そして「寝る」といったら本当に眠るだけなのだ。星宇は夜鈴に夜伽を求めない。よくそんなことで自分は許されているなと夜鈴は思う。ここは後宮で、夜鈴は妃嬪なのに。「人間の男なら俺のようにはいかないらしい。我慢がきかなくて」と星宇は笑っていた。そういうものなのか。人間でもなければ男でもない夜鈴にはよくわからない。
星宇の気づかいはありがたかった。星宇は夜鈴が見た目よりずっと子供であることを理解してくれているらしかった。妖どうしだから理解できるのか、星宇だから理解できるのか、夜鈴にはわからなかったがうれしかった。
周家にいたころは、気持ちなど慮ってもらったことがなかったから。大切にされている実感があって、周家で冷えて固まった心が日々溶けていくようなかんじがした。
二人して衾褥にごそごそともぐりこむ。星宇はいつもあおむけになってまっすぐ天井を向く。夜鈴は横を向いて星宇の肩に額をくっつける。星宇の体温が夜鈴の額を温めるより先に、星宇の規則正しい寝息が聞こえはじめる。星宇はいつもおそろしく寝つきがいい。その寝つきの良さもまた、夜鈴に安心をもたらした。
ずっとこんな日々が続けばいいのに――。
そんなふうに思いながら、夜鈴は目を閉じる。
目をつむると今でも、義母の峰華が憎しみをこめて自分を見る目や、妹の麗霞が憤怒の表情で錐をふりあげたときの顔が思い浮かぶけれど――。
そんなことは、星宇にも香月にも、夜鈴は言ったことがなかった。




