26・覚悟しとけよ
(あの猫宝宝っていうのか。そんなかんじ)
夜鈴は洒落た首輪をした白黒のぶち猫を思い出していた。周家には味方が一人もいなかったが、一匹はいた。ふくふくとしたあの猫だけは、夜鈴に寄りそってくれた。
傷はそこそこ深く、手で押さえても床に血が垂れる。立ち上がって前に出たのは高価そうな絨毯を汚さないためで、ただの貧乏性だ。
(いててて。さすがに痛い)
麗霞にこのくらいの復讐はしてやってもいいと思う。貴族社会を仕切っていそうなおっさんたちがいるこの場で、おもいっきり性悪がバレてしまえと思った。
周家の縛りが消えていることは、後宮に来る前から夜鈴は気付いていた。でも芳静が弱みを握ったかのように得意そうな顔をしているから、知らんぷりをしておいて鼻を明かしてやれと思った。芳静にもこのくらいの仕返しはしていいと思う。
(わたしもろくでもない性格してるな……)
身の内に豊富に溜まった妖力を注ぎ込んで傷の回復をはやめる。もう手を離してもいいかという頃合いで、バタバタと急いたような足音が近づくのが聞こえた。太医を呼ばれてしまったかと思い、顔をあげる。
「――夜鈴!」
「えっ!?」
勢いのある力強い腕に腰を抱かれる。目の前に金色の瞳がある。
星宇だった。
「ああなんということだ夜鈴。顔に傷が――」
「もう塞がったと思います」
「塞がった――だと?」
高価そうなのに申し訳ないと思いつつ、絹の披帛で顔を拭く。ごしごし拭くとまだ痛いので傷は完全には消えていないだろうが、血は止まっていると思う。
「一刻程度で治ると思います」
「治ると思うって……だからといって自分で自分を。おまえが自害を企てたのかと、俺は――俺は」
星宇の金色の目がうるんでいる。えっ泣くの?と思って、夜鈴はあわてた。
「主上、本日は兵部で尚書と将軍と談義では」
賢輪が冷静な口調で入ってきた。
「切り上げてきた」
「切り上げて来ないでいただきたい。兵部からお叱りが」
「やかましい。大丈夫だとおまえが言うから信じたのに。なぜ夜鈴がこんな目に」
「あ、いえ、わたしが自分で――」
「なぜこんな自傷行為を! 夜鈴!」
激したように星宇にきつく抱きしめられ、夜鈴は締め付けにきゅうっとなって声が出せなくなった。出せたとしても「性悪な妹の嘘をあばくため」とは言いづらいが……。
どうしようと思いながら瞳だけで周囲を見回すと、麗霞と目が合った。麗霞は憤怒の形相で夜鈴を睨みつけている。ひえっ怖い顔!と思ったが、よくよく考えたら夜鈴は今、こともあろうか皇帝陛下に抱きしめられているのだ。これではまるで寵妃ではないか。常に誰よりも上にいたい麗霞だ。絶対怒る。激怒する。
しかもこの場にいるのは麗霞だけではないのだ。えらそうな貴族もいるのだ。きっと後でいろいろ困る。
「はなしてくださ……。ぐるじい」
「夜鈴様は、周家と契約が切れていると身をもって証明してくださったのだと思います」
賢輪の解説に、星宇がようやく腕の力を抜く。
「だからといって……こんなに血が。痛ましい」
「もう痛くないですよ」
「痛くないから何だ。俺は夜鈴が傷つくのを見たくない」
「わたしが傷つくのを見たくないと――」
夜鈴は星宇の言葉を繰り返した。
夜鈴が傷つくのを見たくないと。星宇はそう言ってくれた。
夜鈴はなんだか泣けてきた。
ずっと傷つけられてきたから。傷つく自分を見て「いい気味」と言われてきたから。後宮に来ても呪詛をたくさん仕込まれ、大勢に恨まれていると思いながら暮らしていたから。
夜鈴が傷つくのを見たくない。そう言ってくれる人がいるなんて、後宮に来るまで夜鈴は知らなかった。
「ごめんなさい……」
星宇の衣の端を子供のようにぎゅっと握りしめ、夜鈴はぐしゅんと鼻をすすりあげた。
星宇は少し困ったような笑顔になって、夜鈴の頭をなでてくれた。
「着替えて少し休んでいけ。香月を迎えに来させる。――賢輪、夜鈴はもうここに用はないのだろう?」
「ございません」
「ならば夜鈴はもらっていくぞ」
「主上、兵部にお戻りには――」
「やかましい」
星宇に肩を抱かれ、夜鈴は促されるまま房を出た。
離れた小房で女官たちに血の汚れを清められ、真新しい襦裙に着替えさせられる。人心地ついたところで、星宇が花茶の盆を持つ女官を従えて入ってきた。
星宇の目配せひとつで、女官たちが心得たようにさーっといなくなる。
すごいな、これが権力者かと、夜鈴は今さらながら思った。
大体、この真新しい襦裙だってどこから出てきたのだ。星照殿には妃嬪のための衣装の在庫があるのだろうか。通うばかりではなく、星照殿に妃嬪を呼び出すこともあるとか?
(何ひとつわかんないな。皇帝の暮らしなんて)
「主上、兵部?にお戻りにならなくていいのですか」
「おまえまで賢輪のようなことを言うな」
「お忙しいのかなーと思って」
「今はおまえが心配だ」
「ごめんなさい。心配かけて」
「あやまるな」
「主上」
「なんだ?」
「わたし、後宮を出ていいですか?」
花茶を飲もうとする星宇の手が止まった。
金色の瞳が夜鈴を見つめる。
「わたしみたいな妖は、後宮にいたら良くないと思います」
「――夜鈴」
「今すぐでなくても。主上を人に戻すお役目は続けます。それで、妃嬪のどなたかがお世継ぎを生んだら、わたしを解放してくださいませんか」
「後宮が嫌なのか?」
星宇の問いに、夜鈴は否と首を振った。
「菫花殿が、今まで生きてて一番好きな場所です」
「ならばなぜ、出ていくなどと」
「わたし、もう人に恨まれたくないんです。誰もわたしを恨まない場所に行きたい」
この国で一番えらい人が、夜鈴が話すのを聞きながら、しおしおと小さくなっていくような気がした。光を失っていく金色の瞳を見ながら、夜鈴はとてつもない悪いことをしている気がして、胸がちくちく痛んできた。
どうしてそんな顔をするのだろう。
どうしてそんな、傷ついた顔を。
「……後宮を出てどこへ行く」
「妖の村へ――どこか知らないですけど」
「知らずにどうやって行く。たどり着けるのか」
「たどり着けなかったら着けなかったで、べつにいいかなと……」
夜鈴の語尾がだんだんと萎む。
話すほどに星宇の生気が抜けていくようで、夜鈴は言葉の先を続けられなくなった。房に沈黙が満ちる。花茶はもう冷めてしまっただろう。
「嫌だ」
唐突に、沈黙をやぶって星宇が言った。
「俺は嫌だ。夜鈴が俺のそばからいなくなるのが」
光を失っていたはずの金色の瞳が熱を持ち、意志の力を取り戻して、夜鈴をまっすぐ見つめてくる。
「行かせない。行かせないから、俺を恨め」
「主上……」
「出て行かせない俺をおまえが恨め。それでも出て行くと言い張るなら、俺がおまえを恨む」
「……どうして」
「どうして? それを尋ねるのか?」
星宇の両腕が夜鈴に伸ばされる。肩をつかまれるのかと思ったが、その手が宙に止まった。星宇はふっと息を抜くように自虐的に笑い、軽く手を振って元にもどした。
「まいったな……」
今度は右手で額を覆って、本当に参ったように星宇がつぶやく。
「でっ、出て行くといってもすぐにではないですし!」
あわてて夜鈴は言った。なぜこんな、言い訳するような口調になってしまうのか。星宇がへこんでいるように見えるから?
「そうだな。すぐにではないんだな。ならば、恨めだの恨むだのは、まだ先の話だ」
「そうです! そうですよ!」
「夜鈴はまだしばらく俺の添い寝をして、菫花殿で香月と楽しく暮らせ」
「そうします」
戸口で女官が、遠慮がちに香月が来たことを告げる。
「帰りは徒歩で帰っていいんですか?」
「どっちでもいいぞ」
「徒歩がいいです。そのほうがはやいし。大階段を使えばすぐなのに、なんで遠回りして輿で来なきゃいけないのかって思ってました」
「気にするな。様式美みたいなものだ」
「様式美? 宮城ってほんとにわからない……。この新しい襦裙もどこから出てきたんです?」
「それはおまえのためにあつらえておいたものだ。それは普段着だが、晴れ着もあるぞ。後で届けるから、楽しみに待ってろ」
「わたしの? なんでですか?」
「喰呪鬼は衣食住を手厚くすればするほど力を発揮するんだろう? めずらしい食べ物も手に入ったらどんどん届けさせよう。鳳梨なんてどうだ? 南国の果物だぞ」
「えー南国の! すごく楽しみです!」
「晴れ着より鳳梨が楽しみなんだな……」
星宇があきれたように笑う。いつもの星宇に戻ったらしく、夜鈴は心底ほっとした。
熱の籠った目をして、「行かせないから、俺を恨め」なんて言う星宇は、まるで星宇ではないような……。
あのときの星宇の熱っぽい瞳を思い出し、夜鈴はなぜか心臓をぎゅっとつかまれたような気がした。胸のさざめきを鎮めようと、花茶に浮いた花びらを見つめる。
「この茶が気に入ったならこれも届けさせよう」
「……ありがとうございます」
「衣服と、食べ物と、あとは住まいか」
「住まいなら菫花殿でじゅうぶんです」
「もうひとつもっと大きい殿舎を。そうだなあ――」
星宇が立ち上がって窓辺に寄る。窓の外には、星照殿と対になった大きな殿舎が見えた。星宇はしばらくその殿舎を眺めると、大きく笑みをたたえて振り返った。
「月輝殿はどうだ?」
「ご冗談を」
「冗談でもないさ」
星宇が近づいてきて、金色の瞳で至近距離から見つめてくる。
「夜鈴。おまえは妖魔だが、俺も妖魔だ。誰がなんと言おうと、俺はこう思ってる。――俺のつがいを見つけたとな。覚悟しとけよ」




