25・妹の誤算
「帰らない」
麗霞は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
夜鈴が反抗した?
話が違うではないか。
「もう一度言うわ。夜鈴、周家へ戻りなさい」
「戻らない」
「……どういうこと?」
麗霞は女方士に視線を向けた。かんじの悪い女方士も、怪訝な顔をしている。
「やはりな。芳静、周家と喰呪鬼の契約は切れている」
様子を見ているだけだった賢輪がはじめて言葉を発した。
「契約が切れているですって?」
「君が場を設けたおかげで最終確認ができた。周家での喰呪鬼の扱いを観察した限りにおいて、もう契約続行はないだろうと予測はついていたが、予測通りだったようだ」
「観察とは。猫による分眼のことですか?」
「宝宝はよく見ていた」
「猫を通して何をご覧になったのですか? わたくしは詳細を存じません」
「今ここで言わないほうがよいと思う」
一体なんの話をしているのか、麗霞にはわからなかった。喰呪鬼と周家の間には先祖が交わした契約があるから、周家の正当な血筋である自分には、夜鈴を従わせる力があると言われた。他家と契約した妖を後宮に置いておくわけにはいかないから、連れ戻しに来てほしいと、宮廷方士に頼まれた。それでわざわざこうして宮城まで来てやったのに。
「あの……どういうことですの? わたくし、話がよくわからなくて」
麗霞は洪家の後継ぎに向かって甘えた声を出した。
「周家と喰呪鬼が交わした契約はすでに破棄されているということです。詳しくはここでは少々障りが」
「ここでお話し願えないのなら、別の房でお話してくださいませんか。えっと、あなた様はたしか洪家の……」
「洪賢輪、宮廷方士です」
方士とだけ密談は困りますなと年配者から声が上がる。同意の声も次々に上がる。余計なことをと麗霞は思った。洪賢輪と懇意になるいい機会だったのに。夜鈴を好き勝手にできないのなら、わざわざ宮城へ足を運んだ成果がほかにほしい。
麗霞はとっておきの上目づかいで賢輪を見つめた。しかし賢輪は困ったように眉を寄せるだけだった。
「今上帝の後宮に夜鈴様をお迎えするにあたって、一年間周家での夜鈴様を観察させていただきました。方法は、猫に託した分眼――動物と視界を共有する瞳術です。猫の視界ですから精度は落ちますが、長期に渡れば十分な観察が得られます」
賢輪の説明に、麗霞は微笑を凍らせた。
猫による視界共有? 一年間?
この一年、周家の庭に入り込んだ猫など気にしたことがなかった――。
「ま、待って。言わないで――」
麗霞は青くなって懇願したが、年配のえらそうな貴族が「続けろ」と賢輪に命じる。
「喰呪鬼は衣食住を与えられることを条件に解呪の力を発揮し、さらに安心を与えられることで力を拡大します。通常はその場その時かぎりですが、どのような事情か、周家と代々に渡る契約を交わした喰呪鬼がいた。しかし代々に渡る契約といえども、基本条件である衣食住と安全を奪えばそこで契約は破棄される。夜鈴様はごく最近、周家の血族に食物に毒を仕込まれ、顔を錐で裂かれ、衣服を脱がされ、居室を燃やされた。おそらくそのために、周家と喰呪鬼の二百年に渡る契約が途絶えたのです」
賢輪が感情を交えず淡々と話す。しかし感情を表さないのは賢輪だけで、女方士も若い方士たちも年配の貴族たちも、一様に驚いた顔になった。
「周家の誰が――」
女方士の問いに、一同が麗霞に顔を向ける。
「わ、わたくし……知らない。嘘です、そんなの……」
麗霞の震える声が、白々しく場に響いた。
「夜鈴様、先ほどの話は本当ですか?」
「本当です」
「――麗霞様が?」
夜鈴が女方士に「ええ」とそっけなく答えた。その心ここにあらずな答え方に、麗霞はカッと頭に血がのぼった。
「嘘よ! この子は嘘を言っているわ! わたくしは、毒とか、顔を裂くとか、そんなことしてないわ! ねえ賢輪様、夜鈴が顔を錐で裂かれたっていつですの? この子の顔のどこに傷跡が残ってるって言うんですの?」
麗霞は勝ち誇ったように夜鈴を見た。夜鈴は麗霞のほうを見もせず、髪から簪を一本抜きとった。
「何を……。き、きゃあああああ!」
麗霞の悲鳴が場に轟く。
「夜鈴様!」
「なんてこと――」
「太医を! 太医を呼べ!」
夜鈴はあろうことか、簪の尖った切っ先で大きく一筋ざっくりと、自分の頬を切りつけたのだ。右頬から滴る血が首筋を流れ、上襦の襟を赤く染める。
「だいじょうぶです。わたしは、妖だから――」
夜鈴がゆらりと立ち上がり、壁際から房の中心に向かって歩み出た。呆気にとられる一同を意に介さず、夜鈴は血の散った床を見つめたまま、右手をそっと頬に当てた。




