19・なんのためにこの自分が
芳静は星宇と護衛の宦官とともに、星照殿の大階段前まで来ていた。
見上げれば星照殿。前をゆくのは皇帝、星宇の広い背中だ。
つれない広い背中。
昨晩も、星宇は芳静に触れなかった。
喰呪鬼と添い寝して幾日も経つが、まだ妖の力は保たれたままなのだろうか。まだ人にならず、人の女を抱けないのだろうか。
それとも、星宇の色欲はもう満たされきっているのだろうか。
――あの妖の女の体で。
宮廷方士の芳静は、野放図な後宮の呪詛を封じるため、日々後宮内を歩きまわっている。あの雨の日もそうだった。あの雨の日の前の晩、星宇は藤花殿に泊ったが、芳静はいつものように仕事の報告をしただけだった。「そろそろ人の女に触れることはできますか」と切り出しても、「どうだろう」と曖昧な返事しか返ってこなかった。
それなのに翌日、あの雨の日。こともあろうか、星宇は昼間から菫花殿を訪ね、夜鈴と口づけを交わしていた。芳静にはいまだ指一本触れないのに。
あの日二人の姿を盗み見て、芳静は傘を持つ手が冷えていくのを感じた。
なんのためにこの自分が、わざわざ後宮に入ってやったというのだ。
考え足らずの妃嬪がおもちゃのように扱う呪詛を片付けてやるためではない。後宮のそこここに染み付いた、歴代の妃嬪たちの呪詛の凝りを取り去ってやるためでもない。洪家当主に命じられた任務とはいえ、後宮の馬鹿な女たちの怨念の後始末など、もううんざりだ。自分のやるべき仕事はこんなくだらないことではないはずだ。
洪家は黎家と縁が深いから、星宇のことは幼いころからよく知っている。星宇は自分に親しみを感じているはずだ。姉のようだと言われたこともある。星宇ほど地位があり、雄々しく美しい男はほかにいない。一生をともに歩むなら、価値のある男でなければつまらない。女は子を産まねばならないというのなら、星宇のような男の胤がいい。妖の血は喰呪鬼がいれば克服できる。
芳静は星照殿の横に並び立つ月輝殿を見上げた。
皇后になれば――。皇后は皇帝の伴侶だ。皇后は妃嬪とは別格であり、内城だけではなく外城にも通じ、国政に近い仕事ができる。皇后になれば、後宮のくだらぬ妃嬪たちの群れに埋没しなくて済む。目先の享楽しか眼中にない、かしましい雀のような女たちと、方術の研鑽を重ねてきた自分は立ち位置が違って当然だ。
「どうした? 芳静」
月輝殿を見つめて足を止めた芳静を星宇が振り返る。
「殿舎が夕日に映えて美しいと思いまして」
芳静はにっこりと笑った。護衛の宦官がぼうっと自分を見つめてくるのが、視界の隅にちらと映った。自分の笑顔が美しいのは知っている。清楚で。繊細で。賢げで。
「そうだ、賢輪が来ている。会っていくか?」
殿舎の美観にまるで興味のない星宇が、星照殿を見て洪家の跡取りの名を口にする。
「後宮の妃嬪を非公式に外城仕えの者に会わせてはなりませんよ」
芳静はくすっと笑った。
「そなたの兄じゃないか」
「兄であっても手続きが必要です。兄は何用で?」
「俺の状態を訊きにくる」
「主上は阿兄にばかりご自身のことを報告なさって。妬いてしまいますわ」
「男どうしでないと言いづらいこともあるさ」
喰呪鬼を入宮させたのは賢輪とはいえ、星宇は喰呪鬼を添わせたのちの変化を兄にばかり報告する。芳静はそれが不満だった。人の女に欲情できるようになったかどうか、自分に言ってくれなくては意味がないではないか。それとも、星宇は人の女が抱けるようになっても、自分を抱かないつもりだろうか。
芳静の心に疑念が渦巻く。
自分でなければ誰に世継ぎを産ませるというのだ。姜昭容か。安昭媛か。それとももっととるに足らない家から来た位階の低い妃嬪侍妾か。
夜鈴は駄目だ。妖が生まれるから。星宇だってそれはわかっているはずだ。わかっているはずなのに、なぜ夜鈴に口づけをしたのだ。
「主上。次はいつ――」
いつ藤花殿にお渡りになられますかと訊こうとして、芳静は言葉を呑み込んだ。星照殿の白い石畳の階段から、星宇が下を見て笑っている。手まで振っているから何事かと視線を追えば、菫花殿へ続く小道から、女が二人こちらを見上げていた。
芳静は目を見張った。
夜鈴と香月だ。
夜鈴と香月が唖然とした様子で、愛想のいい皇帝を見上げている。
「おどろいている。かわいいな」
星宇が歯を見せて笑っている。自分には見せない顔だ。
芳静はひそかに拳を握り締めた。
(夜鈴をこのまま後宮に置いてはいけない)
喰呪鬼の代わりならいる。妖くらい、山狩りでもして捕まえてくればいい。もっと年老いた喰呪鬼を捕まえてきて、星照殿の一房で飼えばいい。
添い寝などせずとも、衣食を与えて身近に置いておきさえすれば喰呪鬼の力は及ぶはずではないか。周家だって、何代もそうやって喰呪鬼を飼ってきたではないか。
(妖の分際で、妃嬪の位など贅沢よ)
夜鈴は周家に返してしまえばいい。周家と交わした契約を思い出させればいい。周家の祖先が契約した妖なのだから、周家で囲われて暮らすのが本来ではないか。
(周家と喰呪鬼の繋がりをもっと調べてみなくては。きっと契約には強制力があったはず。そうでなければ、何代にも渡って妖を飼うなどできない)
丘の上の芳静は冷ややかな目で、皇帝に目を丸くする妖と侍女を見下ろした。




