18・目指せ、月輝殿!
「画の模特ですかー。なるほど」
桜綾になかなか解放されなかった理由を話すと、香月はすぐに納得した。桜花殿を辞し、日暮れの細道を菫花殿に向かってほてほて歩く。
「また模特やりに来いって言われた。最初こわかったけど、桜綾様いい人だったよ。粽くれた」
「まっ。こんな上等な」
「あとで一緒に食べようね。香月は待ってる間、なにしてたの?」
「元同僚とおしゃべりしてました。わたくしも後宮に来て日が浅いので、いろいろ教えてもらったり」
「わたしも知りたい。どんな妃嬪がどこにいるのかも知らないし」
「皇后と正一品である四夫人はまだ不在ですから、正二品であられる藤花殿の洪昭儀、梅花殿の姜昭容、桜花殿の安昭媛が、位の高い妃嬪でいらっしゃいますね。洪家も姜家も安家も大貴族です。周家もですから、夜鈴様も皆様に並ぶ正二品以上の位階をいただけるはずですが……」
位階がまだないので、夜鈴の今の身分は幽霊みたいなものだ。妖だが。
「独立した殿舎にお住まいの妃嬪はお三方と夜鈴様だけで、正三品以下の妃嬪と役職付きの宮女は大きな宮にお住まいなのはご存知かと思いますが。過去には小さな庵にお住まいの妃もいらっしゃったとか。宦官と宮婢も合わせたらちょっとした邑ですね」
「うーん後宮、不思議な世界……」
「今上帝は昨年の即位の際、後宮は廃止のご意向だったようです」
「えっ」
「妃は大勢要らないと。しかし後宮は古くからいる宦官や宮婢にとっては馴染み深い職場ですから、即廃止には至らなかったのだそうです。それでも、入宮したら一生出られない制度はとりやめにされたそうです」
星宇らしいなと夜鈴は思った。あの人は、他人の人生を取り上げることも縛ることもしないだろう。その気質が皇帝に向いているかどうかはわからないが、夜鈴は好ましいと思った。
「主上って見たかんじものすごくもてそうですけど、どうやら色好みではないみたいですね」
そこは種族的な壁という事情があるのだと香月に教えてやりたいが、皇帝陛下は妖ですとは言えないので、苦笑いでごまかすしかない。
「夜鈴様にもなかなかお手を出されないし」
「まだ言ってる」
「おかしくないですか。こんなかわいい夜鈴様と一緒に寝ておいて」
「――芳静様が大切だからじゃないの」
自分で言って胸が痛むとかどうかしている。
顔に出たのか、香月が真顔で押し黙った。
「……もしそうだとしたら女を見る目なくないですか」
香月の声にはあからさまに怒りがにじんでいる。毒を盛ろうとしているなどと濡れ衣を着せられたのだから、無理もない。芳静が濡れ衣を着せた相手は香月だけではない。桜綾もだ。桜綾は菫花殿に呪詛など仕掛けていないと言った。芳静より桜綾の言うことのほうが信じられると夜鈴は思った。芳静は夜鈴を「周家のおひめ様」と言ったが、桜綾は「周家の令媛として順風だったわけではない」と見抜いていた。
一体なんのために芳静は嘘をついたのだろう。
なんのために香月と桜綾を夜鈴の敵に仕立て上げようとしたのだろう。
夜鈴を後宮から追い出すため?
しかし夜鈴の、喰呪鬼の力がなければ、星宇は子を成せない。
芳静は、夜鈴を傷つけたかっただけかもしれない。
味方などいないと思い知らせて、絶望させたかったのかもしれない。
峰華が、夜鈴が心をなくすまで虐待したのと同じように。
男女の仲ではないけれど、星宇は夜鈴のところへ三日と空けず通っている。
芳静が学んで身に着けた封呪の術。範囲は限定されるものの、夜鈴は持って生まれた能力で同じことができる。
寵妃の座にも方士の役目にもしゃしゃり出てくる新入りが、目障りで仕方なくなったのかもしれない。なのに、遠くへ追いやることもできない。夜鈴には役目があるからだ。
芳静の考えていることが峰華と一緒だったらどうしたらいいだろう。もしも芳静が、憎い存在を近くに置いておかなければならないどうにもならなさに、狂おしくなっているとしたら。峰華と同じ残虐なまなざしが、芳静の目にも宿ったら。
(こわい)
夜鈴は唇を噛みしめた。
芳静が峰華と同じになったらとてもこわい。芳静が夜鈴を孤立させようとしたことに、憎しみ以外の理由があればいいのにと思った。
(誰かが主上の息子を生んだら、わたし後宮を出ようかな――)
皇帝に世継ぎが誕生したら、喰呪鬼はもういらないだろうから。
憎まれる前に、どこかへ行きたい。
「あのさ。出ていけるなら、香月はいつか後宮を出るの?」
「夜鈴様がいらっしゃる限りいます」
「わたしが出て行くって言ったら?」
「おっしゃらないでしょ。夜鈴様は」
「なんでそう思うの?」
「だって夜鈴様は主上のことが大好きでしょう?」
香月はそう言って、夜鈴を励ますような明るい笑顔を見せた。
夕刻の光が背後から差し、二人の影が長く伸びる。小道の脇に、いつか香月に名前を訊こうと思っていた鮮やかな色の夏の花が、ぽつんとひとつ咲いている。
「あのさ、あの……。香月、あの花なんていうの」
夜鈴はあわてて話題を変えた。
戸惑ってしまった。主上のことが大好きでしょうなどと、あらたまって言われるから。
「あの花ですか? 葵です。まだ咲き始めですね」
「わたし、花の名前なんてほとんど知らない。文字も少ししか読めないし、楽器も弾けない。貴族のことも宮廷のことも知らない。……あのね香月。わたし、周家では奴婢みたいなものだったから」
「――はい」
「ううん。奴婢以下だった。下働きの人たちの輪にも入れてもらえなくて、虐げられて、家畜みたいだった。わたしなんかが、皇帝陛下を好きになったりしちゃいけないよ」
周家でのことは言わないつもりだったのに、夜鈴は言葉を止めることができなかった。香月に甘えたかった。そして言ってほしかった。こんな生い立ちの夜鈴でも、星宇を好きになってもいいのだと。
「夜鈴様。わたくしの目には、主上は夜鈴様に好かれてうれしそうに見えますけど」
香月の言葉に、夜鈴は思わず息を呑んだ。
夕方のやわらかな光の中、香月は夜鈴の過去におどろきもせず、おだやかに笑っている。
「わたくし、男の人にろくな目にあわされてないですから、自分は恋なんてしたくないのですが、人の恋路を見るのが好きなんです。両想いはすぐわかってしまいます」
「両想い――?」
「両想いですよ。主上と夜鈴様は」
菫花殿は目の前なのに、夜鈴は葵がゆれる小道に立ち尽くしてしまった。
両想い? 星宇と両想い?
「でも芳静様が――」
「主上と芳静様はお仕事の上での繋がりだって、桜綾様はおっしゃってます」
「わたしは皇帝の仕事なんてなんにも知らないし、支えらんない」
「お心をお支えできればじゅうぶんだと思いますけど」
「それだってできそうな気がしない。わたし、主上のことほとんど知らないし」
「これから知っていくことになるのでは? 淡い初恋のはじまりとはちがうのですよ? 夜鈴様は後宮の妃嬪、つまり、すでに主上の妻なのですから」
「つ、妻……!」
そうだった。碁や双六ばかりやっていてすっかり頭から抜け落ちていたが、後宮に入った時点で結婚したのと同じだった。
「たくさんいますけどね、妻……」
「わたしたくさんいるの嫌だよ!」
「でもここ後宮なんですよね」
「ひーん!」
「しかたがないので頂点を目指しましょう」
「頂点?」
香月は大きくうなずき、丘の上の大きな殿舎をびしっと指差した。皇帝の住まう星照殿に寄り添うように建ちながらも、その威容は隠しようもなく、橙色の瓦屋根も塗りの柱も白壁も、夕日を強く照り返して神々しく光り輝いている。
その殿舎の名は月輝殿。
皇帝の正妻、未来の皇后のための住まいだ。
「皇后になりましょう、夜鈴様!」




