17・安家に頼れ
「次は右足の膝を立てて、目線はこっちへ。顔を上げるな。上目づかいに、ねめつけるように」
麻紙にさらさらと筆を走らせる音がする。
先程から夜鈴は、桜綾が求めるままに姿勢を変え、画の模特をつとめている。令媛らしいしとやかな姿勢ではなく、寝そべったり片膝を立てたり背中を丸めて胡坐をかいたりと、行儀の悪い姿勢が桜綾の好みのようだ。元奴婢なので、とくに抵抗はない。
「いいなあ。本当にいいぞ、夜鈴。美しい……そなたのような模特は本当に得難い。まるで野生の獣のようだ。いい……。もっときつく睨め、夜鈴」
悪党のように片膝を立て、言われるがままに睨みつけてやると、桜綾はほうっと感嘆のため息をついた。
(うーん。どうしてこんなことに)
「次は仰向けに寝そべって背をそらすようにのけぞらせ右腕を……」
「香月が心配するからそろそろ戻りたいのですが。洪昭儀のこと教えてくださいよ」
「香月なんぞ待たせておけばいい」
「帰ります」
夜鈴は起きあがった。
「待て! 話すから。――芳静が何だって?」
「芳静様が、菫花殿に仕掛けられた呪詛のうち何点かは、安昭媛の手によるものって言うんですけど」
「菫花殿に呪詛など仕掛けておらん」
「ですよねえ……」
桜綾は変人で、皇帝の寵愛にも後宮の勢力争いにもまるで興味がないのは、短時間でもよくわかった。ならば夜鈴を呪う理由もない。
「ではなんで芳静様はそんな嘘をついたのでしょう」
「牽制だろう。おまえは安家出身の妃に嫌われているから、出しゃばらず、おとなしくしておくのが身のためだぞと。安家の勢力はそこそこ大きいからな」
「わたしが来るまで、安昭媛の呪詛は芳静様に向いていたとも言ってましたが」
「あの女本当に腹立つな」
「それも嘘ですか?」
「二度ほど呪ったが」
「呪ったんだ……」
「それこそ牽制だ。呪詛が効くとは思っとらん。相手は洪家の方士だぞ。あの女、祈祷と封呪と主上のご機嫌取りだけしておればいいものを、桜花殿の改築やら造園やら調度品の買い付けやらに口出ししおってな。何様のつもりだ」
「口出し?」
「内府局に、桜花殿の浪費を監視するよう進言しおってな。知るか。安家の金でやっとるわ。たとえ内城の金だとしても、皇后でもないたかが九嬪に仕切られる謂れはないわ」
「……」
夜鈴は少々頭が痛くなってきた。桜綾は自分には想像もつかない贅沢三昧のおひめ様なんだなと思った。
「寵妃気取りは好きにやればいいが、皇后気取りは腹立つわ。腹が立つから夜鈴、そなたが皇后になれ」
「無茶苦茶言わないでください」
「そなたのほうが私の好みだ。そなたが上に立つ後宮ならずっといてやってもいい」
「好みで決めないでください」
「桜綾と呼べ。私は己の好みのままに生きるために後宮へ来たのだ」
「なら桜綾様ご自身が皇后におなりになったら?」
「嫌だ。公の仕事などしたくない」
(なんつう自分勝手な妃嬪だ……)
夜鈴は呆れ果てた。
昼過ぎにやってきて、そろそろ日も暮れようかという時刻になってようやく、夜鈴は画の模特から解放された。「次は薄絹の襦袢一枚で」と注文をつけられたが。
ゆるめた襦裙の着付けを直しながら「香月がきっと心配してる……」とつぶやいたら、桜綾が「侍女思いだな」と返してきた。
「香月を信頼していたから、毒を盛られると芳静に言われても信じなかったのであろう?」
「……そうですね」
実はちがうのだが、夜鈴は説明するつもりはなかった。香月が毒など盛るはずがないと思ったわけではなかった。毒を盛られてもかまわないと思ったのだ。
(別に死んでもいいと思ったからなあ)
でも盛られなかったし、香月に打ち明けたら「夜鈴様に毒なんて盛るわけないじゃないですか!」と泣かれてしまった。
梅花殿の愛珍も心配してくれたのだと思う。
(わたし、ちょっと後宮好きかもしれない)
敵もいるが、味方がいる。周家には味方なんて一人もいなかった。すごい環境の変化だ。
夜鈴がうっすらほほえんでいると、桜綾がじっと見てきた。
「なんですか」
「なに。香月はいい妃につくことができたなと。菫花殿に推薦したのは私だからな。まあよかった」
「香月はすごくいい侍女ですよ。おやつおいしいし。桜花殿には合わなかったみたいですけど」
「そなたに合うならいい。――香月は今まで苦労が多かった。母子ともに父親に捨てられ路頭に迷っていたところを母上が拾ったんだ。母親が病に臥せていてな、物乞いのようだった。残念ながら母親は死んだが、なんとか立ち直って安家でしあわせにやっとると思っていたんだが。愚弟がろくでもない真似を」
「……」
「そなたも周家の令媛として順風だったわけではあるまい。苦労人どうしわかりあうところもあるだろ」
夜鈴は思わず桜綾の顔を見返してしまった。切れ長の目が観察するようにじっと夜鈴を見ている。
「そなたの体つきを見ればわかる。肉体労働をしていたな? 甘やかされた令媛の肉体ではない。事情は訊かずにおくが、話したくなったら話しにくればよい」
桜綾はそう言うと、小卓に乗った粽を麻紙に適当に包み、押しつけるように夜鈴に手渡してきた。
「あ、ありがとうございます……」
「安家に頼れ」
「え……」
「周家に頼れないなら、何かあったら安家に頼れ。私にな」
桜綾はそう言うと、もう行けとばかりに顎先で戸口を指した。




