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16・桜花殿の芸術家


 こんな理由でよその妃嬪を訪ねることになろうとは。


 夜鈴は香月とともに、安昭媛(あんしょうえん)こと安桜綾(あんおうりょう)の暮らす桜花殿の門前までやってきた。

 香月が隠し持っていたのはお香だとわかったのは良かったが、甕の中の陶器の小瓶が消え失せていたのだ。芳静が怪しいと思わずにはいられない。


 芳静はなぜ、香月が毒を隠し持っているなどと嘘をついたのだろう?

 夜鈴は悩んだあげく香月と相談して、芳静について情報を得るため、桜綾に話を聞くことにした。夜鈴と香月のたどたどしい文に素晴らしく流麗な文字で文が返ってきて、訪ねてくるようにと日時がしたためられていた。


「どうしよう……。緊張する。こわい人じゃないといいけど……」

「こわい方です」

「どうしてそういうこと言うの香月! ひーん!」

「大丈夫です。胸を張っていらっしゃれば、夜鈴様も迫力では負けませんから。美は力です。強さです。ひーんとか言ってちゃダメです! 毅然として参りましょう」


 口だけは勇ましいが、香月だって夜鈴の背に半分かくれている。ここは主の自分がしっかりしなければと、せめて姿勢くらいは正してみた。


 桜花殿付きの宮女に出迎えられ、夜鈴と香月は桜花殿の庭園へ足を踏み入れた。菫花殿には様々な初夏の花が咲いているが、桜花殿の園林に花はなく、新緑のほかに鮮やかな色がない。先導する宮女の襦裙まで渋い色味だった。

 池泉のまわりに巡らされた回廊をしずしずと歩む。広くて立派な庭園だ。この殿舎を与えられた安家は貴族社会での地位が相当高いのだろうと夜鈴は思った。


(貴族社会の序列?とか、ぜんぜんわかんないんだよなあ……)


 周家では奴婢より下の立場だったもんなあと、夜鈴はため息をつく。なのに大貴族の元令媛と話をするなんて、気が重くてしかたがない。貴族の娘なんて、底意地の悪い麗霞と得体の知れない芳静しか知らないし。


「桜花殿では、花は桜だけとされているのです」

「ええっ。そうなんだ」

「こちらの庭園は一見地味ですけど、わかる方にはすばらしい造りだそうです」

「そうなんだ。さっぱりわかんない……。幽鬼の気配があるのはわかるけど」

「ええっ。いるのですか」

「いるっぽい」


 桜花殿の宮女が厳しい顔で、ひそひそ話す夜鈴と香月を振り返った。




『安昭媛は内気でいらして、ほかの妃嬪とほとんど交流がないの。書画の世界に引きこもり、主上の訪いを待つだけの寂しい方――。妄想的になるのは致し方ないかもしれないわ』


 安昭媛、桜綾を前にして、夜鈴は芳静の言葉を思い返していた。

 故意に嘘をまぶして語ったのでなければ、芳静の観察眼は当てにならないと思う。


 桜綾は切れ長の一重の目を細め、眼光鋭く夜鈴を見つめている。長い黒髪は結い上げず背に流し、ゆるりとまとう襦裙は濃い鼠色、襟元にだけ銀と鮮やかな緋色の柄が入っていた。衣装のことなどまるでわからない夜鈴にも、これだけはわかる。


 個性派だ。


(これがいわゆる芸術家肌……)


 桜綾はなにか書きつけていたようで、(つくえ)を前にして細筆を持っていた。そばに年若い宦官がひとり控えているが、桜綾も宦官のような顔をしている。すっと鼻筋の通った男顔だ。桜綾は美女というより、中性的な美男子を思わせる顔立ちをしていた。


「ふうん。そなたが噂の菫花殿の主か」


 桜綾は声も低めだ。かすれて妙な色気がある。


「夜鈴と申します。どうぞお見知りおきを」

「よい。顔をあげよ。ふふ……これは洪昭儀があせるわけだ。美しいな。まるで人ならざる者のようだ」


 人ならざる者と言われて、さすがに夜鈴はぎくりとした。


「書の気分ではなくなった。おまえは帰れ」


 桜綾が顎で宦官の退室を促した。


()をお描きになられるのでしたら私も――」

「帰れ」


 取り付く島もない桜綾の態度に、宦官がしおしおと(へや)を出ていく。戸口で名残惜しそうに振り返るのを桜綾がしっしっと追いやる。けっこう酷い。


「気にするな。あれは私の弟子だ」

「弟子?」

「書の弟子だ。若いが趣味人でな。画にも興味が出てきたらしい」

「はあ……」


 ほかの妃嬪と交流がないのは本当かもしれないが、少なくとも内気なせいではないと思う。寂しそうでもない。えらそうだ。


「それで? 洪昭儀について話が聞きたいと?」

「はい」

「主上に尋ねればよかろう? 三日と空けず通ってこられるそうではないか」

「訊きづらいのです。洪昭儀は主上の寵妃でいらっしゃるから」

「寵妃はそなただろう?」

「まさか」

「主上の寵愛が洪昭儀から菫花殿の新入りへ移ったともっぱらの噂だが。しかし皆わかっとらんな。寵妃が変わったのではない。寵妃ができたんだ。よかったな。洪昭儀なんぞほうっておけ。最初から敵ではない」

「え。いや、そんな」

「私を味方に引き込もうとする目の付けどころは悪くない。私は芳静が嫌いだからな。だが私は後宮の勢力争いに興味がない。私に接触してくるな――と直々に言おうと思ったのだが、少々気が変わった」

「えっ? 勢力争い?」


 話がおかしな方向へ転がっていきそうで、夜鈴はあわてた。香月にも何か言ってほしかったが、別の房に引き離されてしまっている。


「帯をゆるめて前をくつろげろ」


 夜鈴があわてていると、桜綾は獲物を狙う猛禽類のような目で夜鈴をひたと見つめたまま、言った。


「はい?」

「裙の帯をゆるめて上襦の前をくつろげろと言っている」


 しきたりや内情をろくに知らぬまま後宮入りしてしまった夜鈴にとって、後宮の知識は周家の奴婢たちの噂話で知ったところが大きい。下々の者が語る後宮の噂は衝撃的で下世話なものが多く、その中の一つに「妃嬪や宮女どうしの性愛」があったと、夜鈴はたった今思い出した。


(ちょっ……待って)


 夜鈴はじりじりと後ずさった。


(待って待って待って)


 桜綾が夜鈴を見つめながら、ゆっくり間合いを詰めてくる。


(助けて! 香月!)


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