5、四代目教祖時代2 ――世界宗教への階梯1、三千世界の犬信仰の誕生――
お待たせしました。引き続き、先生には午後の講演をお願いしたいと思います。それでは、お願いします。
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皆さん、午後もよろしくお願いいたします。
突然ですが、皆さんは「猫になりたい」という言葉をご存知でしょうか。
これが良い意味にきこえたとしたら、あなたは、まだまだ深く悟ることができていないかもしれません。
実は、この言葉は、少なくとも、ギャラクシー猫信仰の深度について確かめようとするときの、いわば試金石のような役割を果たす時代もありました。
というのも、察しの良い方はすでにお気づきでしょうが、ギャラクシー猫信仰における「猫になりたい」は、まだギャラクシー猫の真髄に触れていないことを意味するからです。
なぜなら、猫になりたいと思うまでもなく、我々はすでにギャラクシー猫なのですから。
もっとも、真髄を悟れたら良くて、悟れなかったら悪いという意味ではありません。悟れていようがいまいが、ギャラクシー猫信仰であることに違いはありません。
実際、「猫になりたい」という言葉は事典にも掲載されておりますし、自らが猫的なものになることに対して積極的な一派も多く存在しますし、猫のポーズを日々繰り返す一派なんてものも存在します。
その全てを受け入れて多様化してきたのが、ギャラクシー猫信仰なのです。
思い返してみれば、こうした多様化を繰り返すことこそ、ギャラクシー猫信仰が世界宗教になるために必要不可欠な脈動だったように思います。
その最たる例が、あの「三千世界の犬信仰」との関わりだったのでしょう。
午後の部では、こうしたギャラクシー猫信仰における大衆化について、お話していきたいと思います。
以前、私が街を歩いていると、一人の猫を飼う男性が話しかけてきました。
「そのままでも猫はかわいい。現実の猫でいいのだから、心の中のギャラクシー猫は必要ない」
いま目の前にいる現実の猫を愛することに全力を注ぐべきだという考え方です。そこで私は答えました。
「たしかに、貴方には必要ではないかもしれませんが、この現実で飼っている貴方の猫を、今よりもっと好きになってもいいのだと、それを自覚してもらうための思想でもあります」
この時代には、教祖としての私の考え方もかなり大衆的なものとなっていました。
例に挙げた男性のように、現実の猫へのソフトな愛の告白であればよいのですが、目に見えて目立った活動をする者たちが現れました。
月のスコティッシュフォールド派と自称する者たちです。
彼ら彼女らは、自分たちのギャラクシー猫を作り出す運動を始めました。そして、非常に幻想的な美しい猫を崇めるようになりました。簡単に言えば偶像崇拝ですね。
これはギャラクシー猫信仰原理主義――すなわち、それぞれの心の中に自分だけの猫を見出すという信仰――に近い考え方を持つ者たちからは、本質を見失っているとして、一触即発の事態になりかけました。
原理主義サイドが許容できない問題点は、自分が心に抱いているギャラクシー猫のイメージにまなざしが注がれるのではなく、他人によって作り出されたり、誰かに無意識下で押し付けられたりしたギャラクシー猫が、受け手の心を支配してしまうことです。
さらに、この論争が決着を見るより前に、彼ら彼女らとは別の、猫になりきることを目指すグループが急速に成長しはじめました。彼ら彼女らは自己のギャラクシー猫を形成するためと言い張って、夜な夜な集まっては町中を徘徊しました。四つん這いで街を闊歩し、集団で猫の鳴きまねをして迷惑をかけていました。猫になりたい気持ちは、ある程度理解できますが、仕方ないなどとは言っていられません。実害が出るのでは教団は動かざるを得ませんので。
こうした度重なる逆境を前に、私は葛藤に頭を抱えました。頻発する迷惑行為や小競り合いをうけて、教義を明確化する必要を感じたものの、しかしそんなことを決断してしまえば、本来絶対的に自由であるはずのギャラクシー猫信仰をキツく縛り付け、ギャラクシー猫信仰そのものが勢いを失っていく切っ掛けになってしまうのではないかと危惧したのです。
そうやって手をこまねいているうちに、また別の大きな信仰が登場しました。
大衆化によって、ギャラクシー猫信仰のような形而上に意識を向けるわかりにくい信仰よりも、明確でわかりやすい信仰が人々から求められたのです。
そのころ、急激に信徒の数を伸ばしていたのは、「三千世界の犬信仰」というものでした。
ユニヴァース猫信仰や、ギャラクシー猫信仰に対抗して生まれた三千世界の犬信仰には、二つの柱がありました。「あらゆる世界の形は犬である」というものと、「その犬とはトイプードルである」というものです。
くるくるとした毛玉の一つ一つが世界であり、我々が暮らすこの世界もトイプードルの一部だと言うのです。
はっきり言って、あまりに似すぎており、これは悪質な信仰の盗作であると思います。しかしながら、三千世界の犬信仰の連中は、一匹の明確なカワイイトイプードルの絵を打ち出し、それをシンボルとしているので、そこにオリジナリティがありました。
とっつきやすさ、わかりやすさの面で比較すると、より優れていると言わざるをえませんでした。
ピンチだと思いました。このままだとギャラクシー猫信仰はごく一部の信徒を残すのみのマイナー信仰になってしまいかねず、また私は、どうしようどうしようと右往左往するしかありませんでした。
ギャラクシー猫は自由な信仰です。どのような猫を胸に思い浮かべてもいいのです。一方で、この時の、初期の三千世界の犬は不自由な信仰と言えます。一匹のトイプードルのイメージを共有せざるをえません。
新奇性、わかりやすさ、そして仲間意識を形成する唯一のシンボル。
犬信仰は、まさに大衆化の時代に適した思想だったと言えるでしょう。
コミュニティを形成する皆が同じシンボルを崇めることによって結束が高まり、共通する社会常識が形成されてゆきました。
三千世界の犬信仰は非常に頑固で、信徒も信じられないほど従順でした。一方で、ある程度の自由信仰であるギャラクシー猫信仰は、迷惑を起こすグループも複数あるため、ギャラクシー猫全体が煙たがられつつあるという状況まで追い込まれてしまったのです。
これはすべて……迷って、おろおろして、見ているだけで決断力の皆無な、愚かで鈍な私の姿勢が招いたことであったと思います。
しかしですね、結果からいえば、三千世界の犬信仰への干渉や交渉を行わなかったことは、実は猫信仰が見直される要因にもなっており、愚かなことも、時には役に立つこともあるのだなと思います。