19、ニヤーニャ学派
「ニャンコスキー先生、お久しぶりです」
ずいぶんご無沙汰です。そういえば、すでに卒論の提出期間に突入していましたね。最近の研究活動はどうですか。
「まさにそのことで、先生に聞きたいことがあるのです。古代に流行した猫信仰について研究しているのですが、質問よろしいでしょうか」
ほう、古代ですか。どのような信仰でしょうか。
「ニヤーニャ学派についてです」
ああ……彼らですか。
「明らかにテンション下がってるじゃないですか。その様子だと先生の信念とはかけ離れたものなのでしょうね」
そんなことはありませんが、彼らの主張は、私の考えとは合わない部分が多いです。
「どのような思想なのですか」
ん? それは、研究をしているあなたのほうが詳しいのでは?
「いえその、実は、研究をこれからしたいなと思って、その背中を押してほしかったのです」
どういうことですか? もう卒業論文の提出期間中ですよ? あと数日で締め切りと聞いていますよ? 今まで何をやっていたんですか?
「バイト、就職、恋愛、サークル。最近の大学生は忙しいんです。社会が先生に迷惑をかけてごめんなさい」
面白い謝り方ですが、そもそも謝罪の必要などありません。とりあえず、あなたのかわりにテーマを見つけてあげることはできませんし、あなたの卒業論文の担当ではありませんが、困っている学生を見捨てるのはギャラクシー猫信仰の精神に反します。基礎の部分からお話ししましょう。いいですか?
「ありがとうございます。お願いします」
ニヤーニャ学派とは、論争そのものを目的とし、みずからの正しさを追求する集団と言われてきました。
たとえば、犬が実は猫であることを証明するには、まず犬が人の感情を揺らし、世話を誘発させるというはたらきが共通していることを挙げます。
たとえとして、水は流れていようが、止まっていようが、風に漂っていようが水であることに変わりはないことを示し、われわれはさまざまな水の働きを見て心が動かされる関係性を無意識のうちに名前を区切りながら愉しんでいることを示します。
このことから犬が、猫や水と同じように気まぐれに見た目を移り変わらせ、人ととびきり良好な関係を徐々に形成していくことで、猫的な働きを見せていることに疑いはないでしょう。
ゆえに、犬は実は猫であり、猫もまた犬である可能性も高らかに浮上するのです。
と、このように段階的に説いていくのがニヤーニャ学派の探求方法です。
「それって、まるで先生がよく使う三段論法ではないですか」
三段論法? 現代風の三段論法のことですか? うーん、私はあまり使わないですね。
「あれ、以前、龍が猫であることを説いていた時に多用していたように思うのですが」
それは真実の探求です。真実をねじ曲げるような目的をもって論争するような使い方はしていません。世にあふれる現代風の三段論法とは実は違うのです。
「……そうなのですね」
確かに、議論に勝つのは大事なことです。生きるためには、時に議論で勝利をしないと道がふさがることもあるでしょう。望む地位が得られないような悲劇も起こるでしょう。
でも自分が生き残るために学問をするのは、不純なことだと思いませんか?
「そういうものなんですね」
特に、真のニヤーニャ学派の目的からすれば、そう言えると思います。
「実は目先の議論の勝利が目的では無かったと?」
そうです。ニヤーニャ学派の真の目的は何か。それは、実りのある整備された五段階と、そこから派生したチェックパターンのフィルターを通すことによって、議論の精度を極限まで高め、真実に到達することを目指すものです。削って深めて研ぎ澄ませていく方向性に振り切った信仰なのです。
「真実とは?」
人にとって、宇宙にとって、猫にとって、最も大切なことに気付くことです。
あなたが研究領域として選択したのは古代の原始的なニヤーニャ学派とのことですが、彼らの考え方は、最も基礎的で、シンプルな五項目を中心としたものです。
そのなかで私が最も重要であると考えるのは、「ニャン」の部分ですね。
「えーと、先生、ごめんなさい。『ニャン』って、どの段階でしたっけ」
いわば、「たとえ話」にあたるものですね。
「ああ、なるほど」
それぞれの段階を簡単に説くと以下のようになります。
第一段階、ニャウ。これは何を主張するかということです。最初に核心をもってくるんですね。
第二段階、ニャウン。これは根拠です。なぜそう言えるのか、理由を明示します。
第三段階、ニャン。これが、たとえ話の部分。ここが議論の優劣を決定づける重要な段階です。
第四段階、ニャオウ。第三段階までを踏まえて、議論を融合させる段階です。
第五段階、ニャッウ。最後にあらためて結論を繰り返します。
「ええっと……ニャウ、ニャウン、ニャン、ニャオウ、ニャッウ……うーん、いやー、なんどきいても、さっぱりわけがわかりません」
であれば、ニヤーニャ学派の研究から一度離れてみるのがおすすめですね。
「そんなあ、何とかしてくださいよ先生。卒論がぁ」
そう言われましても。
「時間がないんですぅ。一か月切ってますぅ。年内に提出なんですぅ」
はっきり言います。今のあなたが考究しようとしても、得られるものは非常に少ないでしょう。ほかのいろいろなものに触れて、視野を広げてから、あらためて彼らの主張の意味を深く考えてみるべきです。
「じゃあ学ぶ価値がないってことですね」
そんなことは言っていません。私としては、彼らの考え方にも可能性を見出すことができると確信しています。
「どこがですか。いらなくないですか、こんな思想」
たしかに、一つ一つの可能性をつぶしていくことになりがちな点、それから議論に勝つことが最優先になりかねない点が気に食わないところではあります。
それでも、的確な「たとえ話」をひねりだすことは十分に創造的ですし、それが他者に覚醒をうながすこともあり得るでしょう。
「禅問答的な?」
そういった有意義なものに発展することも時にはあるかもしれません
また、ニヤーニャ学派がさらに煮詰まったものでは、先ほども触れたように、より正確な議論のために作られた、何十通りものパターンの網があります。そうしたあらゆる物事を仕分けんとする大風呂敷もまた、世界を創造する手段の一つなのです。いらない思想なんて無いですよ。
「はい……」
ああ、そんなに落ち込まないでください。私の説明も、すこし教科書的でよくなかったかもしれませんね。一つ、実例を出してみましょうか。
「お願いしますぅ」
では、今さら説きなおすまでもないことですが、ギャラクシー猫信仰の神髄について、古代ニヤーニャの方法を用いて論じてみましょう。
ニャウ、猫がカワイイから宇宙カワイイ、そして人もカワイイ。
ニャウン、それは常にズレながら存在しているからである。
ニャン、夜空に浮かぶいくつもの猫座は、実はゆっくりと気ままに動いており、そのズレ方は人や猫に共通するものである。
ニャオウ、猫は穏やかな暮らしの中で気まぐれに姿を変える。人もまた日々の繰り返しのなかで意識せずとも微妙に変わっていく。それは宇宙の星々が固定した星座をもつように見えながら、微細なズレを生み出し続けているのと同じだ。
ニャッウ、ズレを生むからカワイイ。ならば猫と人と宇宙とは、すべてカワイイ。
以上です。
さて、どういったときに我々はカワイイと思うのか、それは、ズレを心が知覚した時なのです。
私たちは、いつも日々を繰り返すために、いくつもの予想を立てて生きています。期待していると言い換えてもいいです。それが甘く外れるところにこそ、カワイイが立ち現れるのです。
猫が最もカワイイ生き物のひとつである理由は、絶妙なズレによって、次のズレを期待させてくるところにあります。人と人との間では会話の中で無意識にズレを楽しんでいます。宇宙では星が動くことでズレが生み出され続けています。
つまり、それは生きているということです。
ゆえに、すべてがカワイイのです。
「ありがとうございますぅ! この録音した先生との会話をAIに流し込んで、出てきたやつをそっくりそのまま提出しようと思います」
すばらしいですね。カワイイかどうかは微妙なところですが、それもまた一つの道ですね。
「はい!」
熱砂の上の茨の苦難の獣道も覚悟を生むための正しい道の一つです。止めることはしません。
「そうですよね! 卒業がかかってるんだ! AIなら何とかしてくれる!」
また来年、ぜひ相談に来てください。それでは、よいお年を。
「はい!」
フィクションです。実際の学派とは関係ありません。




