14、エスケイプウサギ信仰
ネザーランドドワーフ。
ウサギの一種ですね。
「そうです。自分は日々脱獄しています」
いいですね。素晴らしいです。つまり、あなたはエスケイプウサギ信仰に辿り着いたのですね。
「はいっ。先生も脱獄に理解がおありとは、嬉しい限りです」
ええ。
あ、皆さん……誤解しないでいただきたいのですが、私クロードニャンコスキーは犯罪としての脱獄を推奨しているわけではありません。悪行を助長する意図はありませんし、罪を犯したのなら、ルールに従って償うのは当たり前のことです。
ここで言う脱獄とは、小世界からの脱出を果たして、大いなる世界に飛び込むことを言います。
昨日の講演で、この世界のことをウサギ型の女神の胎内であると主張する思想をご紹介したと思います。
マトリョーシカのように、幾重にも包まれたこの世界。
無限にも思えるような数の層をもつ玉ねぎのような構造の世界、その深い内部に我々が暮らしているというのが、ネザーランドドワーフオデッセイやエスケイプウサギ信仰の共有する世界観です。
脱獄とはつまり、この小世界の外側の世界へ脱出して、さらなる外側の世界を目指し、次々に外へ外へ、まだ見ぬ世界を目指し続けることを言うのです。
想像を絶するほどの広大で未知なる世界への脱獄を繰り返す物語こそが、ネザーランドドワーフオデッセイなのです。
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この脱獄は創作を通して一人ひとりの心の中で行われるため、言うなれば、そう、内なる脱獄といった性格をもつわけです。
このようにウサギの大冒険における脱兎の脱獄物語から発生した「エスケイプウサギ信仰」は非常に素晴らしいものなのですが、少しばかり問題があります。
誰か、わかる方はいらっしゃいますか。
「はい」
あ、渋谷先生。どうぞ。
「エスケイプウサギの問題点としては、まずは兎に角外へ外への信仰なので、心が安定せず、落ち着きのなさが指摘されることがあります。正直、テレビのチャンネルを息つく暇もなく次々に変え続けているような不安定さがしばしば指摘されています」
その通りですね。
「それと、特に宇宙カワイイを標榜するギャラクシー猫信仰からは、これは正直後ろ向きな思想だという指摘があります。『脱獄をするということは、この宇宙が監獄であることになる。それはカワイイとは言えない』という批判です」
そうですね。
しかし最近では、その監獄や刑務所がカワイイで満たされていれば問題ないという見解もあります。
「さらに致命的な問題があります。どこまでエスケイプし続けても永遠に囚われの身であるということは、これも非常に後ろ向きな考え方ですよね。自己の未来に絶望を来たし、生きる気力を失わせかねないのではないかという懸念が正直強いのです」
そのように言われることもありますが、それは少し誤解があるかもしれません。
エスケイプウサギの信徒は、いつかゴールがあると信じているのです。外へ外へと抜け出ていって、新しい世界や未だ見ぬ景色を次々に見つけていった先に何があるのかわからないけれど、やがて果ては来る。
つまり「脱獄」という語は、エスケイプウサギ信仰においては消極的な逃避のことではないのです。積極的な大冒険であり、問題解決や成長のイメージをもって語られるということです。
この世界の果てに何があるのか、というよりは、一個の自分自身がどこまで行けるのか、というところに意識が向いているわけです。
「失礼しました。至らぬところもありましたね、正直すみません」
いえ、渋谷先生の仰った問題点というのは、大いに的を射ております。正直、私の言いたいことの大半を言っていただけて、大変助かりました。ありがとうございます。
問題点はといえば、こうしたエスケイプウサギ信仰の真髄が、少々伝わりにくく、誤解されやすい傾向にあるということなのです。脱獄という言葉をとってもそうですね。一般的には、聞いた者がギョっとしてしまう言葉選びです。
しかし、脱獄。
そうとしか表現しようがないのです。
つまり、各種オデッセイ運動の盛り上がりを皮切りに、それがウサギ型女性神胎内信仰と結びつき、エスケイプウサギ信仰が生まれ、ひとりひとりが精神的な脱獄を目指す機運が高まってきているというわけです。
どういうわけか、ちょうど私の手元に、一つの絵画があります。
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檻から抜け出し、「はいよゆー」とか言っているかのような絵になっております。
もともと、エスケイプウサギ信仰を描く場合、全裸で笑顔のウサギ娘を描いていました。なんらいやらしい意味はなく、徒手空拳、身一つでの脱獄を表現するためです。
しかし、あまりに刺激が強く、信仰が誤解されることを懸念し、破けた囚人服で両手を広げる絵に変わりました。最近では、それさえ刺激的すぎるということで、脱出の成功に誇らしげに笑うボーダー服のウサギ娘が描かれるに至りました。
はい、とてもカワイイですね。
まとめますと、これらエスケイプウサギ信仰やオデッセイ運動というのは、各々がみずからの世界を拡張、どころか創造していくところまで突き抜けており、しかし信仰という名がついている以上、何かを信じていることになります。
もう、わかりますね?
自分自身を……その創造性を信じているわけです。
これを一言で言うのであれば、ギャラクシー猫信仰にも通ずるものですけれども、
――いつもいつでも、あなたこそが教祖なのです。