始まりの日
その年の梅雨は、蒸し暑くて最悪だった。エアコンをきかせていなければ部屋の中の気温はぐんぐん上昇。オマケに湿気でベトベトとした気持ち悪い汗が出て来て、部屋の中の環境は最悪になる。
私の部屋はまさにそんな感じ。エアコンはなく、代わりに扇風機が回っているが、熱くじめっとした空気が全開になっている窓から入ってくるわ部屋の中にこもわるわで、地獄の様相を見せ始めている。
更に私の目の前にあるゲーム機が熱を放っているので、人が生きていける環境ではない何かが完成してしまっている。この中で生きていける生き物は、大袈裟に言ってカンガルーかラクダくらいじゃないかな。そこに私が加わる。
そんな暑さに苛まれながら、何故私はゲーム機に向かっているのか。どうぞ、テレビの画面をご覧ください。その理由が分かります。
そこでは私が操る人間が剣を手に、巨大な目玉からいくつもの触手を生やした黒い塊の化け物と戦っている。操っていると言っても、コマンド制のゲームなので私はただ行動を選択しているだけだ。
え?見ても理由が分からない?
……仕方ないから、説明してあげよう。
私が今やっているゲームは、私が生まれる前に発売されたマイナーゲームだ。タイトルは、『アリスエデンの神殺し』という。よくあるファンタジーRPGで、その作り込まれた世界観や感動のストーリーでコアなファンの心を鷲掴みにした名作ゲームである。
今画面に映っているこの敵を倒せば、その感動のエンディングが……という訳ではない。私はもう何年も前にエンディングを見終わっている。
じゃあ、目の前の敵は何なんだと。こんなクソ暑い中で、汗だくだというのに集中してやる程の事なのかと。そう思うでしょう。
集中してやる程の事なんです。
みんな、今私が操っているキャラクターのレベルに注目してほしい。そのレベルは4831。ちなみにこのゲームをクリアするだけなら、ここまでのレベルはいらない。レベル100もあれば余裕でラスボスを攻略できる。
では私のこのキャラのレベルはなんなのか。はたまた、レベル4831の私の攻撃を受けて余裕をみせる相手のこの化け物はなんなのかと。
そう。この敵はいわゆる裏ボスと呼ばれる存在で、名前を『邪神』という。この敵は本当に厄介で、ただ普通にゲームを進めているだけでは絶対に勝つ事が出来ない。
というのも、先ほど述べた通りゲーム自体はレベル90もあれば余裕でクリアできる。しかしこの邪神を倒すには、最低でもレベル3000は必要となってくるのだ。理由は敵自体の各種ステータスの強さもあるが、レベル3000以上ないと全体即死攻撃で死んでしまうから。ちなみにレベル2000以下で挑むとコマンド入力してもキャラが動いてくれなくなり、ただ死ぬのを待つだけとなる。使用して来る魔法も通常攻撃も強烈で、レベル3000くらいじゃ普通に一撃で死んだ。今でやっとまともに戦えるようになっている。
ここまでレベル上げに、どれだけ膨大な時間を費やしただろうか。レベル100を超えたら大抵の敵はただの雑魚に成り下がり、貰える経験値は僅かになるのに次のレベルに達するのに必要な経験値が膨大に増えていくと言う悪夢の日々。子供の頃から毎日コツコツとやってきたのでここまでにかかった正確な時間は分からないけど、年単位である。
アリスエデンの神殺しのプレイヤーの中には、勿論頭の良い人もいる。いわゆるチート行為をして邪神を倒そうとした人もいるらしい。でもどうしても上手くいかず、とん挫したのだとか。開発陣も皆、どうしてこんなに強いボスを作ったのかという理由を、一様に口を閉ざす。普通にプレイして邪神を倒したと言う人間も報告されていない。世界広しと言えど、この敵を倒した者はまだ一人も現れていないのだ。誰も、邪神を倒した後のアリスエデンの神殺しを知らない。
だが私は知ろうとしている。
その瞬間を私は一瞬も見逃そうとはせず、神経を集中させて画面に見入っている。それがこの灼熱の暑さを吹き飛ばしている理由。私は歴史の目撃者になろうとしているのだ。
戦闘が始まってからはや4時間。そろそろ倒せるはず……もう倒せるはず……次で倒せるはず。
敵は中々倒れてくれず、逆にこちらがピンチに陥る。だが攻撃を止めて回復に専念し、どうにか立て直す事に成功。再使用可能となっていた主人公の必殺技をお見舞いしてやった。
すると、邪神の身体が大きく揺らいだ。それはこのゲームで、敵を倒したときのエフェクトだ。何千回。もしかしたら何万回も見て来た光景なので、見間違えるはずがない。
「や、やった……!」
私は歓喜の声をもらした。
その瞬間、何かがおこった。何がおこったのかは分からない。でも確実に、何かがおこった。
音がなくなった。暑さがなくなった。重力がなくなった。空気がなくなった。何もかもがぐちゃぐちゃになって混ざり込み、でも自分の頬を伝って汗が落ちていく感覚だけはあった。でもそれもまた暗闇に包まれて消えていく。
2000年代初頭。高校生活一年目の夏。ちょっとだけオタク気質で内気な性格の私は、そんな不可解な現象に遭遇した。