第9話 魔法音楽院の天才
9
数日後――。
教室はほのかな光を浴びている。光を受けたミネバは、まるで太陽神のように、美しいが、光は影を生む。表裏一体。神の微笑みも世界のすべてには届かない。ミネバの背に浴びる光は、恋音に影を生む。光が射し込む場所は気まぐれ。まだらに照らして、教室の至るところに真っ暗な穴が出来る。
放課後。恋音とミネバのギターレッスンは今日も絶賛開講中。
「じゃあ、今日はコードの練習をする」
「あ~! あたしそれ知ってるよ~っ! あれだよね! FとかGとかHとかでしょ~!」
「Hはないです。A~Gまでです」
「ほへぇ~、そ~なんだ~」
「ま、多分覚えられないと思うけど……、一応、説明はしておこうと思う」
「うん! あたし天才だから完璧に覚えられる!」
「その自信はどこから来るんだ……、ほんとに」
金色の少女はにんまりと笑っている。真っ直ぐに恋音を見つめる視線に、みなぎるアイデンティティーが溢れ出す。
彼女の人生を思えばそれも自然か、と恋音は思いつつ、コードを説明する。
「いい? コードっていうのは、ある法則に基づいた音の集合体。要するに和音のことをいう」
「うんうん!」
「例えばC。Cは、ドとミとソを同時に鳴らした音のことをいう。ドを基準として、そこから三つ目の音、五つめの音を鳴らしている。これをアラビア数字でⅠ、Ⅲ、Ⅴと表す。このパターンの組み合わせをメジャースケールという」
「うんうん! なるほど!」
「……? 妙に覚えがいいな……? ま、いいか。続けると、ドレミファソラシドは、音楽ではCDEFGABというアルファベットに置き換えて表記も出来る。C、つまりドを基準にしたメジャースケールは、Cメジャーという。これは基準の音を他に置き換えても同じで……」
「ふむふむ! にゃるほど!」
ミネバは素直な瞳で頷く。夢を輝かせ、子犬のように無垢に笑う。
恋音は疑問を感じる。あまりにも反応がよすぎるのだ。だから撒き餌を撒く。犬が釣られるように、単純な言葉で。
「じゃあDのメジャースケールってなに?」
「……? なにそれ」
「……、今説明したろ。それを応用してDのメジャースケールを考えてみて」
「……? そんなこと恋音くんは説明してないじゃん! 教えてもらってないことは出来ないよ!」
「やっぱり耳ついてないですね」
「え~、なになに? わかんないよぉ」
「じゃあ僕が言ってたことを繰りかえしてみてよ」
「え……、うん、だからぁ……、ⅠとⅢとⅤの音がメジャースケールになっていて、ドレミファソラシドはCDEFGHIになってるんでしょ~? ……あれ? 足し算はいつするんだっけ? あ、一+三+五は……、八だ!」
――パコンッ
「いったぁ~い! なんで叩くの~! あたしの頭はモグラじゃないよ~!」
「不正解」
「え~っ、だってあたし算数なんてできないもん! あたしが出来るのは、先生の耳を舐めることだけ!」
「ギターはどうしたギターは」
「ふえぇ~、なにが間違ってるの~? 答えは八じゃないの~?」
「うーん……、いや……、きっときみにはこの世界の方がが間違ってるんだろうね」
――数十分後。
窓から射す光を少女を浴びる。宝石のような瞳は真剣なまなざし。白い指はしなやかにギターに触れる。CとGとFのコードを反復練習するミネバは、映画のワンシーンのように綺麗で、恋音は呼吸を忘れる。
ミネバの手さばきはぎこちないが、以前ほどではない。
恋音は思う。物覚えは悪いし、頭も悪い。だが、本人が言うようにセンスはある。不格好だが、恋音が教えたCとFとGのコードを、この数十分で弾けるようになっている。それも血筋、才能……、と聞きかじったミネバの人生を思う。
「ポロロン……♪ あっ、恋音くん、あたし……、曲出来た!」
「……? 曲? 作曲なんてまだ……」
「出来たよ! あたし風……、光咲レイン」
「……?」
「ちいさなきいろ」
――思えば僕は歩いてた~♪ 病院に向かう途中~♪ でも足をとめたのは~♪ つぼみの花があったから……♪
ミネバは突然に歌い始める。習いたての三つのコードを循環させて、ギターをかき鳴らし、鈴のような美声で張り切って歌う。
八ビート。BPMは145。荒いピッキングは不協和音混じりで、弦を抑える左手は時折ミュートしてしまう。
――下を向いてばかりで~♪ 卑屈な僕とは違う~♪ 空を仰いで晴れやかに~♪ 花開いていくちいさなきいろい花~♪
少女が歌うのは光咲レイン作「ちいさなきいろ」という曲。病院に向かう途中、駐車場に咲いたちいさなたんぽぽに自分を重ねたレインが作った叙情的で刹那的な歌。
原曲のキーはC#。カノン進行をベースにした楽曲で、六つ以上のコードを使う。
到底、今のミネバには弾くことが出来ない曲だ。ミネバの演奏はデタラメで、光咲レインの歌とはまるで別物だった。
歌詞は同じだが、コードに合わせてアドリブでメロディを変えている。
――思えば僕は考えてた~♪ 世界平和と児童虐待~♪ カウンセリングをしてみたら~♪ 帰り道が憂鬱で~♪
声は鈴になって太陽を誘っている。天使のような美声は、悪魔のように迫力があり、恋音の無防備な脳内に刃物を突き立てる。
ミネバの歌はオペラや歌劇のような歌唱方法だった。教室中に声が響き渡るほどの圧倒的な声量と声の厚みを持っている。
恋音は幻想を見る。
少女の後ろに咲いた太陽の花。ちいさなつぼみは声の雨を受けて、花開く。神々しい黄金色は、暖かさと希望に満ちている。まるで命を与えられたよう。恋音は思う。死んで生まれ変わったかのような光を、感じる。
花は空に昇り、太陽になって輝く。太陽から光の粒が雪になって降り注ぐ。まるで光の雨。
――空っぽだった今日を~埋めたいと願っていた~♪ 幹線道路の駐車場~♪ 変わらない毎日の途中~♪ 空っぽだった今日が~変わっていく気がした~♪ つぼみが開いてく~♪ ほんの一瞬のちいさな奇跡♪
光の雪が落ちる世界は、眩しい。恋音は寝ていられない。太陽の届かない隅々まで、照らされている。恋音は目を覚ます。
――きいろい花の中に羽を広げていく蝶々のように♪ どうかこんな僕のことを連れ去ってくれないか♪
あぁ……そうだ。これが音楽の奇跡。モノクロだった僕の世界をカラフルに染めてくれた音楽の姿。
恋音は思う。二年と少し前のある日を。
自分の原点。光咲レインが生まれた日を。
――花開いていく~♪ 可憐で優しいちいさなきいろい花♪
この光は世界の真実。
あの日と同じ。
「ふぅ~っ、どぉ? 恋音くん、あたしの歌は」
演奏を終えたミネバは自信満々な顔でポーズを決める。口角があがり、歪みのない視線で恋音を誘う。
――パチパチパチパチパチパチ……。
恋音は手放しで拍手を送る。
「えへへ……、どうもどうも~っ、ありがと~っ」
「すごい」
「えへへ……、やだぁ、もぅ」
「まるで太陽みたいだった」
「じゅる……、えっへへ……、そんなこと言われたらぁ……、涎止まらなくなっちゃうってば~っ」
「びっくりしたよ。歌うきみは太陽になって、星の雨を降らすんだ」
「ちょっとぉ……、そ、そんなに褒められたらぁ……、あ、あたし……、ん……、じゅる……」
「すごいね。中野ミネバさん。さすが、天才ミュージカル女優、妖精ミネバだ」
中野ミネバは妖精の異名を持つ天才歌劇女優。
世界的な劇作家/演出家であり、劇団シリウスの代表でもあるエトワール・ヴァルジャンを父に持ち、幼少期から歌劇女優になるべく英才教育を施された。
デビューは七歳。エトワールの新作歌劇「妖精と円舞曲」の主役に抜擢され、颯爽と表舞台に現れた。
金髪碧眼に傷ひとつない白い肌。しなやかで均整のとれたスタイル。情緒に訴えかける芝居と、ホールの奥深くまで届く美声。
七歳とは思えない完成度の高さは大絶賛され、ミネバは一躍、スターダムに上った。
「妖精」とニックネームをつけられ、テレビにも出演。映画やドラマで主役を飾ったこともある。
しかし二年前――、学業に専念するためという理由で活動を休止した。
「妖精の歌は、夜と星の幻想を見せるんだよね。舞台では」
「……な~んだ、知ってたんだ。あたしのこと」
「そりゃ……、知らないやつはいないだろ。僕より有名人だから」
「あ~っ、今! 言った!」
「……?」
「僕より……、って! つまり自分が光咲レインだって認めたってことだよね? 認めた~っ! みっとめた~っ!」
「……、そうだよ。僕は……、そう、レイン……。いや、光咲レイン……だった」
「えへへ~っ、やっと会えたね。光咲レイン。あたしのアイドル。大好きです光咲レイン」
「……、ありがとう。でも、今はもうレインじゃないから、その言葉は受け取れない」
「……恋音くん?」
「でも……、きみの歌は凄かった。僕はレインじゃないけど、きみは間違いなく妖精だよ。歌で幻想を見せる魔法使い。魔法音楽院始まって以来の天才だ」
「えへ……、じゅる……、さっきから褒めすぎぃ。あたしぃ、褒められるのはぁ好きだけどぉ、……素直だからすぐ涎出てきちゃうんだからねっ!」
「だけど事実だ。きみの歌は、太陽だった。僕に太陽を見せてくれたのは、きみが二人目だよ」
「ぎゅふっ……、えへ……、う……、恋音くんそんな褒めたらあたしぃ……」
「違うんだ。僕は、音に色を感じる。共感覚なんだ」