第8話 魔法の国
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「ねえ先生! 先生はなんで恋音くんなの?」
「……? はぁ? シェイクスピア?」
「えへへ……そう。ロミジュリ。よく知ってるねさすが光咲レイン」
「人違い」
「恋音くん。恋の音と書いて……、恋音。音楽をやるにはすっごいかっこいい名前だよね。友恋愛さんがつけたの?」
「さぁ……、知らん」
「本名でもかっこよかったのに……、なんで光咲レインって芸名にしたの?」
「さぁ……、僕がつけたわけじゃないし」
「え~? じゃあ誰がつけたの?」
「さぁ、知らない」
「え~っ? 嘘だ~っ? その顔は絶対知ってる顔だ~! あたしのこの瞳はごまかせないぞ~」
「どういう設定なんだ、今は」
ギターを置いて、恋音とミネバは休憩をしている。どうにも一度に詰め込むと、ミネバの頭はパンクしてしまう様子なのだ。
椅子に座り雑談をする。少し開いた窓から射し込む春風に乗って、少年少女は空を飛ぶ。音楽という武器を持って。
「ねえ、歌ってほしいなぁ。恋音くん。あたし聴きたいの! きみの歌」
「いや……、レインの歌は弾けないし歌えないし」
「ううん。いーの。レインの歌じゃなくて。きみの歌が聴きたい。他の誰でもない高崎恋音くんの歌を」
「僕の歌……」
「音楽は自由を歌う鳥のように、あたしたちに翼をくれる……、そうでしょ? 恋音くん」
「……かもね」
ミネバの真っ直ぐな瞳は空よりも蒼い。視線を合わせた恋音を遠く、海の向こうまで連れていくように、ミネバは無邪気に笑う。
少し思いつめた恋音。下を向いた先にあるのは塗装がはげたギター。抱えているのは大切な思い出。ギターを始めた五年前に、新宿の楽器店で買った相棒である。いくつもの傷。補修痕。路上、ライブハウス、レコーディングスタジオ……、日本中を一緒に冒険した。
「あぁ……、じゃあ弾くよ。歌」
「お~! 待ってました~!」
「薄明のきみ」
薄明のきみ。四年前に発売された光咲レインのデビュー曲。
風の匂いが眩しい薄明の街を歩く少年と少女の情景を描いた歌詞と、叙情的で優しいメロディが心地のいい曲。BMP145。ミドルテンポのリズムで、ハスキーで線の太い光咲レインの美声を堪能させてくれる。レインの代表曲の一つである。
――風が~吹いて♪ きみの頬をなでている♪ 攫われ~ないように~♪ リボンで結んだ髪~♪
「お、おぉ……」
恋音は歌い始める。ピックは使わず指のフィンガーピッキングで弦を弾く。キーはC♯。Cadd9の感傷的なサウンドが、詞の世界観を膨らませる。色っぽい低音ボイスは、少し声を張るとハスキーな歌声に変わる。
眠たそうな顔は一転して鬼気迫るアーティストに変貌。眼光鋭く、緩みを感じさせないオーラは、まるで生死をかけた戦いに挑む戦士のよう。
ミネバは圧倒される。歌い出して数秒。変貌した恋音の世界に、ただただ引き込まれる。
――薄明の~匂いが♪ 幽霊を誘っている~♪ 連れて行かれないように♪ 握りしめて~♪
恋音の歌が宙に舞っている。音の粒がひとつひとつ色づいて、教室を鮮やかに染めている。色褪せたフローリング。焦げた椅子。古ぼけた天井。くすんだ黒板。音は雪のように空から降り注いで、一つまた一つと教室に落ちていく。
「すごい……、やっぱりきみは……、皇子……」
――せせらぎの音♪ 夜を~照らす太陽は♪ 鮮やかに~♪ 色づいて~♪ 飛び乗った春風は~♪ きみと二人で♪
「……やっぱり、魔法使いだ。恋音くん……きみは」
音が宙を舞って世界を色鮮やかに染めていく。フローリングの木目は若木のように艶を取りもどし、焦げた椅子は塗り立てのワックスのようにきらきらとする。天井は純白のドレスのように澄み渡り、黒板は森林のように深緑する。
世界が輝き出す。どれもこれもが違う色をしている。
「妖精と円舞曲の皇子……、そう、きみは……、魔法が使える」
ミネバは感激のあまりに涙を流す。空からこぼれ落ちたのは、熱い想い。憑き物が落ちたように微笑みながら、涙する姿はまるで皇子と妖精が出会うシーンのよう。
二年前――光咲レインがカリスマ的人気を誇った理由。レインは歌唱力も演奏力も群を抜いた才能を持っていたわけではない。だが、レインは空間を支配し、人々を自分の世界に引き込む天賦の才――魔法を使えた。
影響を受けた少年少女は数知れない。だからこそ二年前に突如引退した事実を、未だ同世代の子供たちは受けいれられずにいる。
――今日は~♪ きっと~♪ 昨日より少しだけいいよ~♪ 優しいきみらしい光が寄り添うよ~♪
歌はサビに入る。恋音は声を張り上げて一層の輝きを世界へ放つ。ミネバは魔法に包まれて、涙が止まらない。溢れ出す世界の輝きに、ミネバは心を奪われる。色づいた教室にカラフルな雪が舞い落ちる。それはまるでおとぎの国のように鮮やかで、ミネバは一生ここにいたいと思う。
――れんくん……、なんで歌なんて歌ったの? そんなこと……、しなくても、幸せだったのに……、だから私……、死んじゃったんだよ――
「――ッ……う……」
――――――――。
突然に魔法の世界にヒビが入る。愛おしい声が脳髄に響き渡ると、恋音は急に演奏をやめる。とても苦しそうな表情で、悶える。
降り注ぐカラフルな雪は死んだように地に墜ちて、見るも無惨に枯れていく。命を失った世界は、逆流して色を奪う。カラフルだった教室は一点にして色を失い、ミネバはモノクロの幻想を見る。
「う……、ぐ……」
「……? ぐすん……、なんで? なんで歌うのやめちゃうの? 一番い~ところだったのに……」
「ぐ……、弾け……ないんだ。僕。ギターを」
「……? 弾けない? どーゆーこと?」
「集中するとね……、色がなくなるんだ。少しずつ少しずつ……、モノクロになっていく。なにも見えなくなる……、弾けなくなるんだ」
「……、嘘……、そんな」
「ミネバ。きみの瞳は嘘を見抜けるんだろ? だったらわかるはずさ」
恋音は穏やかな笑顔でミネバを見つめる。涙でぐしょ濡れになった顔は、少年の真意を真っ直ぐに受けとめて、不安な顔に変わる。
「これは……、呪いなんだ。やりたいことをやった僕への、世界の罰」