第7話 だってあたし犬だからっ! わんわんっ!
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皇子と妖精は群を抜いた実力を持っています。切磋琢磨する仲間ですが、ライバルでもあります。負けず嫌いの妖精は、ある日、皇子に決闘を挑みました。戦いは三日三晩続き、激しい演奏が昼夜問わず空に幻想を抱かせました。
夜と太陽。決着はつきません。陽が昇れば、待っているのは夜です。来る日も来る日も歌い、弾き続け、やがてお互いの体力が底をついてしまいました。決着はつきません。勝負は引き分けに終わりました。戦いの果てに二人は意気投合しました。実力を認め合い、真の友情で結ばれたのです。
『舞台 妖精と円舞曲 第七曲 決闘』
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数日後。
聖愛学園高校。
傾いた太陽が色あせた教室を焦がす。
部室棟の空き教室。誰もいない教室には、椅子と机が六個置かれている。恋音は隅にまとめられたそれを二つ持って、並べる。
「ほれ、座りなよ」
「ほぉ~い! 恋音先生~!」
「あのさ……、ミネバは教えてもらう立場なんだから……、こういうのはきみがやるべきなんじゃないの?」
「え? だって先生はレディファーストの優しい先生でしょ?」
「僕が優しいのは妹にだけだ」
「え~っ? 桃井さんには~? 優しくしないの?」
「あいつは……、あいつが僕に優しくないからな。すぐ蹴るし、関節技しかけてくるし」
「えへへ……、仲良しなんだね」
「どこを聞いたらそう思うんだ」
「え~? だって二人って付き合ってるのかと思ってた。てゆーかみんなそう思ってるよ、きっと」
「僕たちはそういうんじゃなく……、なんか……、家族みたいな、……あれなんだよ」
「家族……」
ミネバは下を向く。金色の髪は太陽のように眩しい。嘘を見抜く瞳は蒼く澄んだ地球のよう。ミネバはどこまでも美しくカラフルだ。しかし影の色はみんな同じ。どこまでも真っ暗な闇だ。
「ミネバ?」
「あっ……、うん! そうなんだ! じゃあ、あたしも恋音くんと結婚して家族になりた~い!」
「じゃあ、福山雅治弾けるようになったらね」
「え~っ、違うよ~! あたしが弾きたいのは光咲レインの歌だもん」
「ま、いいや。じゃあ、ギター持って」
一瞬、暗い顔をしたミネバの様子が恋音は気になった。しかし、はじけ飛ぶ笑顔で笑うミネバに、恋音は、勘違いだと思う。
椅子に並んで座った二人は大きなアコースティックギターを抱えている。「IRIS」というメーカーの日本製ギター。二つとも恋音の所持品。ミネバはギターを持っていなかったため、恋音が貸与した。
ギターバッグを抱えて高校に登校するのは恥ずかしかった。
「じゃあ、昨日の復習からな。開放弦はなんの音になってるんだっけ?」
「……?」
「だから開放弦。昨日教えただろ。一弦の音は?」
「……、え、えっと……、ド! いやラ? いや、シだ!」
」
「はぁ……、初日に教えたばっかりなのに、もう忘れたの?」
「ぐすん……、ごめんにゃさい先生。あたぁし……、もしかしたらバァカなのかもしれにゃいです」
「もしかしなくてもバカだ」
「うぇ~ん、なんでそんなことゆーの! 女の子はバカでも可愛ければいーんだからね!」
――パコンッ
「そういう話しはしてない」
「……ッ、い、いったぁーいっ! んもう、なんで叩くの~? 頭は撫でるものだよ! 愛絵ちゃんにするみたいになでなでしてよ~」
「頑張ったらな」
「う……、うぅ……、あたしだって頑張ってるんだからね! 大体、先生だって嘘つきのくせに」
「……関係ないです」
「あるもんあるもん! 光咲レインなのに! ギター弾けないとか嘘ついてあたしを騙そうとしてたもん! 嘘つき! 最低男!」
「きゃんきゃんうるさい犬か、お前は」
「そーだよ! わんわん! わんわん! じゅる……、ハァハァハァハァ……、あたしは先生の犬! 美少女エロ犬です! わんわん! ……ペロリ」
「そうか、ミネバは犬だったのか。道理で涎が垂れるわけだ」
「わんわん! うん! 先生のことだいしゅき~! じゅる……、ペロペロ~」
「ん……、あ、こらっ! 舐めるな、やめろ……」
「え~? なんで~? いーじゃん……、はぁはぁ……、先生はこーゆーのがお好きなのですか? えへへ……、ぺろぺろ……、ぺろぺろ」
「――う……、き、気持ち悪い……、うぅ」
「ハァハァ……、じゅる……、ペロペロ~!」
中野ミネバは恋音に密着し、首筋を舐める。腕を抱きしめて、柔肌の太ももを恋音に擦りつける。近づけた顔は少し赤い。意図した甘い呼吸は、周囲をミネバの色に染める。舌なめずりをして、荒く息をする。まるで犬。エロ犬だ。さすがの芝居だ、と恋音は思うが、不快だったので、頭は撫でない。
「先生! しゅき~……、じゅるるる……、はむはむ~っ」
「あ――、う……」
――はむっ。
ミネバは勢いのままに恋音の左耳を甘噛みした。ミネバの心が腔内を通して恋音へ伝わる。黄ばみのない真っ白な歯。儚げなリップ。密着した体は、天使のように柔らかく、恋音は彼女を同じ生き物とは思えなかった。
ああそうだ。こいつは犬だ。違う生物だった。とミネバの芝居にすっかり騙されているが、気持ち悪かったので頭は撫でなかった。
「ミネバ……」
「あ……」
ぼそりと呟いた恋音の声は真剣だった。色っぽい低い声。穏やかだが深みがあり、人を惹きつける美声。
ミネバは咄嗟に身構える。やり過ぎた。怒られる! と思った。しおらしい無垢な瞳は、動物のように素直。
「もう……、ギターの練習やめる?」
「え……、あ、やめないです」
「やる気はあるんだよね?」
「は、はい! あります! 先生!」
「じゃ、ちゃんと座って。ギター持って」
「はい……、ごめんなさい。先生。あたしつい……、調子に乗っちゃう癖があって」
「芝居は上手だったよ。ちゃんとエロ犬だった」
「あ……、う、うん! そーなんだ! あたしね、演技し始めるとキャラクターに入りこんじゃうの! 自分を忘れちゃうくらいに」
「でも褒めないけど」
「え~っ、なでなでしてよ~」
「だめです」
やんわりと否定する恋音の視線にミネバはドキドキとする。ミネバは恋音が気になる。彼の纏う優しい空気は、どこで生まれたのか、知りたくなる。
「恋音くんって……、モテるでしょ」
「……? やっぱりギターの練習やめる? やる気ないの?」
「あります! でも先生! あたしみたいな美少女に甘噛みされても落ち着いてる人は、先生が初めてです!」
「他の人にも甘噛みしてるの? それも癖なの? 涎だけじゃなく?」
「はい! だってあたし犬だから! わんわん! はぁはぁ……、じゅるる」
「……」
「……」
「じゃあ、帰ろっか」
「あ~っ! 違う違う! ちょっと待って~っ! 今のは冗談! 犬ジョークです!」
立ちあがった恋音を間髪入れず抱きしめるミネバ。キレのいい動きは、運動神経の良さを感じさせる。
「あ、い、今! ……復習します! あの……、えっと、開放弦は……、えと……、あ、そう! ミラレソシミってなっていて……一番太い六弦から……、ボロロン……♪」
ミネバは辿々しい手つきでギターを弾く。六弦から順に開放弦を鳴らす。
「……ミラレ、ソシ、ミ……、ボロロン……♪ どぉ? 恋音くん。合ってる?」
「うん……、合ってる」
「えへへ……、あたしね、バカだけどセンスはあるの! やればなんとなく出来ちゃうんだよね……、えへへ」
「じゃあ、ドレミファソラシドって弾いてみて」
「あ……、え、えっと……、ドは……、五弦の三フレット目から始まって……、えっとレは四弦の開放弦……」
「そうそう。ギターは一フレットごとに半音上がるから……、ってことはミは?」
「えっと、一つ、二つ……、あ、ここ! 四弦の二フレット目! ここがミ!」
「そうそう……、なんだやれば出来るじゃん」
「えへへ……、えっとだから次はファだから、また半音ずつ上がって……」
華奢な体に大きなアコースティックギターを構える金髪少女は、白く繊細な指先で弦を抑えていく。光に照らされる美しい容姿に相反して、指の動きはまだ不格好だが、ひとつひとつ、音階を奏でる。
「……、シ、……、ド! ドレミファソラシド♪ 出来た!」
「ミネバ……」
「あ……」
――なでなで。
「えらいえらい。上手に出来ました」
「……ッ、恋音くん……」
「ちゃんと出来たからご褒美」
「う……、うぅ……、あたし、嬉しいぃ……」
「犬にはご褒美あげないとね」
「……じゅる……、あっ、やだぁっ! 嬉しくて涎出てきちゃったぁ……」
「どうすれば止まるんだ、その涎は」その涎は」