第5話 夜明け
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夕方。
十八時。暗くなった空に星はまだ見えない。
追いすがるミネバを引き剥がし、恋音は家に入った。自宅は六百平米の立派な一軒家。入間川の河川敷沿いに建ち、一歩外に出ればせせらぎに触れる。春夏秋冬。四季折々の自然を感じながら恋音は育った。
河川敷の土手に咲く花の名前を恋音は覚えられない。
家は三階建て。屋上露天風呂にサウナ、テラスも完備され地下室もある。
この広い家に恋音は妹と二人で住んでいる。
一階のリビングダイニング。十五畳はあるスペースにダイニングテーブルと椅子が四つ。シルクのテーブルクロス。六〇型のテレビ。四人掛けのソファ。一九世紀フランス製アンティークの棚には額縁の絵とオブジェ。割り箸で歯車を作ったアナログ時計。りんごばかりで描かれた奇怪な肖像画。写真もある。恋音と愛絵。そして姉と母が写る家族写真。まだ小さなきょうだいを、笑って抱きしめる母の姿。
デミグラスソースの匂いが食卓に漂う。香ばしいひき肉の香り。
今日の夕食はハンバーグデミグラスソース。恋音が作った。
恋音は妹の愛絵と二人暮らし。家事の当番は決まっていない。気づいた人がやる、というスタンス。鈍くさい恋音だが、幼少期から家事を手伝ってきたおかげで、料理は得意。
椅子に座り、妹と二人、恋音は夕食をとる。
「ぱくぱく……、ん~っ、今日の夕ご飯も美味しいね! お兄ちゃん!」
「あぁ……、たくさんこねこねしたから」
「こねこね~♪ 愛情もいっぱいこねこねしてくれた~?」
「ん……、まぁ」
「むぅ~っ! お兄ちゃんなんか素っ気なぃよぉ~!」
高崎愛絵はあどけない声で悲痛に叫ぶ。一四歳。中学二年生。身長一四五センチ。体重三八キロ。黒髪のショートボブに猫のようなつり目が特徴的。八重歯がチャームポイントだが本人は矯正したいと思っている。明るく無邪気な性格だが、素顔を見せられる相手は家族だけである。本質は内向的で人見知り。代わりに鋭い感性を持っている。
愛絵は、画才がある。七歳の時に書いた風景画「りんごの世界」は、線を使わず、全てをりんごの集合体で描いた実験的作品だった。りんごの世界はニューヨーク現代芸術批評協会(NMARA)による国際コンテストで大賞を取り、一躍、国際的に注目された。
「二人だけの兄妹なのにぃ~! もっとマナのこと可愛がってよぉ~っ!
「可愛がってるよ」
「じゃあ……、なでなでして? ほれほれ、なでなで!」
「はいはい……、なでなで」
「んにゃぁ~、にしし……、お兄ちゃんのなでなで幸せ~……、じゅる」
「おいこら、涎垂らすな」
「えへへ……、ごめん。なんか嬉しくて」
「誰かみたいだな」
「……え? 誰かって……?」
――ピンポーン。
インターホンの音が鳴った。恋音は不審に思いながら受話器へ向かう。
「んもう、いいところだったのにぃ~! こんな時間に誰なのっ、お兄ちゃん!」
「知らん知らん」
「早く戻ってなでなでして~」
「なでなでは一回千円だからな」
「え~! お金取るの~! お兄ちゃんいつから守銭奴になったの~!」
「だって愛絵はお金持ちだろ。りんごの世界だって一〇〇〇万で売れたし。千円くらい安い安い」
「ん~、お金の管理はお母さんがしてるからマナはわかんないよ~」
「天才画家はお金なんて気にしなくていいもんなぁ」
「お兄ちゃん、なんかイジワル! 今日はずっとなでなでだから! 夜までね! オールナイト!」
「いや……、それは」
「えへへ……、でももしかしてお母さんだったり、してね。あはは……、お母さん急に帰ってくるから」
「そしたらオールナイトは無理だな」
「でもお母さんだったらインターホンなんか押さない、か。マナ、お母さんに寝込み襲われたことあるし!」
「え~! やばっ」
「夜、人気を感じて目を覚ましたらお母さんが布団に忍び込んでた……、あはは、それが一年ぶりのお母さんだったの」
「あの人らしい……」
――ガチャ。
恋音は受話器を取った。
「はい。高崎です。どちら様ですか?」
「――恋音くん! ギター教えて!」
「……」
「恋音くぅ~ん!」
「……グッナイ」
ガチャリ……。と恋音は受話器を置いた。受像機。五インチの小さなモニタでも来訪客の正体はひと目でわかった。
玄関の街灯に照らされた金髪は、燃ゆる赤色。頬は幻想的に彩られ、まるで舞台のスポットライト。
「……? お兄ちゃん? 誰だったの?」
「ん……、なんか人違いだったみたい」
「……え? 人違い?」
「うん……、そう。人違いだ。僕はもう光咲レインじゃ……」
――ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン! ピンポーン!
「お、お兄ちゃん?」
「ガチャ……、はい高崎です」
「恋音くぅ~ん! ちょっとぉ~! なんで切っちゃうの~! あたしだよ! あたし! 中野ミネバ! 恋音くんにギター教えて欲しくてきたの! あ、あとお弁当持ってきたよ! 昼間食べてもらえなかったから、また作ったの! よかったら食べて!」
「……もうご飯は食べた」
「え~! あたしはね~、まだ食べてないんだ~! 一緒に食べようと思って! えへへ……もしかして夕食って恋音くんの手作りご飯? だったらあたしも食べたいなぁ~! 光咲レインの手作りご飯なんてファン垂涎……、じゅる……、あ、やだぁ涎出てきちゃったぁ……」
「諦めて帰ったんじゃなかったの?」
「うん! 一旦帰って準備してきたの!」
「そっか」
「うん! だから開けてぇ~恋音くぅ~ん! カチャカチャ……、あれれ~? 開かないよぉ? 鍵かかってるみたいだよぉ? ほら、開けて~。ね~?」
「ストーカー?」
「えへへ……、うん! そう言ったよね? あたし、言ったことは守るタイプなんだ! えへへ……じゅる……」
「それ、使う場所違う気がする」
――ガチャリ……、恋音は再び受話器を置く。愛絵は不安そうに恋音を見る。恋音は眠たそうな顔。なにを考えているのか愛絵には読み取れない。
「お兄……ちゃん?」
「……夜が明けてきたなぁ」
「……? はぁ? これから夜になるんだよ? なに? 誰なの? なんなの?」
「涎垂らした妖精がストーカーしてるんだよ」
「……?」
「――なでなで」
恋音はそっと愛絵の頭を撫でる。小さな頭。その頭から何千万円もの作品を生み出してきた。世界に必要とされている現代アーティストの卵。
恋音は玄関へ向かう。廊下にはイランで作られた一〇メートルの絨毯が敷かれている。「この幾何学模様は世界一」と母の言葉を思い出す。母は仕事で海外を転々としている。滅多に帰ってこない。世界中で工芸品や芸術品を買い、自宅に郵送する。生活費は莫大な金額が口座に入っている。「自由に使って」と、母の言葉。恋音が大学を卒業するまで生活には困らない額だ。信頼されている証、とも思うが、大雑把な母らしい行動だとも感じる。
恋音は玄関の戸を開ける。街灯の明かりが風に攫われて少女の髪を照らしている。赤みがかったスポットライト。闇夜に光る蒼い瞳は、この世のものとは思えない色をしている。まるで舞台「妖精と円舞曲」のヒロインのように、人間とは思えない。
――ねえ、れいくん。お姉ちゃんはね、思うの。夜って凄く恐いわよね。だけれどね、朝になったら陽が昇るように、いつかは終わるのよ。そうじゃない? れいくん。
いつかの言葉が恋音の脳裏を横切る。風が鼻をつんと小突く。犬のようにうるさい声。冷たい春の夜風。
「じゃあきみは夜を照らす太陽?」
「うん。きみと二人で鮮やかに色づいて春風に飛び乗る」
「ほんとに……、光咲レインのファンなんだね」
「うん。えへへ……、歌詞は全部覚えてるんだ。薄明のきみ。光咲レインのデビュー曲だよね?」
「レインのストーカーなの? きみは」
「ううん。あたしは恋音くんのストーカー! えへへ……、お弁当食べる? ピーマンの肉詰め作ってきたんだぁ~」
「またひき肉……」
「あ、紅茶も持ってきたの! イギリスのね、すっごい美味しいアールグレイなんだけど……」
「ま、いいや。入りなよ。寒いし」
「う、うん! わぁ~、お邪魔しまーす! えへへ……、ほんとゆーと寒くて涎が溢れてきてどうしようもなくて……、じゅるる……」
「絨毯に垂らすなよ~」
少女は踊るようにスキップして敷居をまたぐ。歩いた道にはたまゆらが浮かぶ。太陽と草木の匂い。そういえば花が好きそうだった。家の前の河川敷に咲く花の名前を、この子なら教えてくれるだろうか。恋音は思う。いやそれよりも……。