八十八話
じいさんのその言葉を聞いて、俺の心臓がどくんと大きく脈を打った。
「わしから、ゆっくりしていってくれなど言っておいて、勝手なことは重々承知している。だが……」
「くっ、ははっ……」
しかし俺はすぐに冷静さを取り戻すと、吹き出し、小さく笑う。
それはもうとてつもなく申し訳ないような顔をしていたじいさんが、そんな俺をみて怪訝な表情を浮かべた。
「いや、すまん。しかしそんな神妙な顔をして何を言われるかと思えば。なんだ、そんなことか。」
俺が特に気にもしていない様子で放ったその言葉を聞いて、じいさんは今度は目を見開きぽかんと呆けた顔を晒した。
「何、元々、今日出て行くつもりだったんだ。」
「そう、なのか……?」
「ああ。じいさんに挨拶もせず出て行くのもどうかと思って帰りを待つことになってしまったがな。」
じいさんは知る由もないだろうが、彼の言葉を聞いて俺が少々動揺したのは、単に織田さんに同じことを言われた時のことを思い出したからだ。
思っていた以上にそれは俺の中に傷を負わせていたようで、吹き出してしまったのは、それで心を揺さぶられたことについて自嘲しただけだ。
ここを出て行くこと、それについて特別何か思うところがあるわけではない。
「そもそもここに来た時から、そのまま二人を置いてオサラバしようとしていたろう。気にするようなことじゃない。」
「だがそんな柳木君を引き止めたのはわしだ。それなのに……」
「あー、いい、いい。だが、そうだな。その言いかけた理由を聞いても?」
俺は自分の心中を少しばかり整理してから、じいさんを見る。
おそらくは俺の機嫌を本当に損なっていないのかと訝しげな視線を向けて、じいさんは口を開いた。
「勿論だ……少しばかり、長い話になるがな。」
そう言って語り始めたじいさんの話は、パンデミック初期の頃のこの町の話だった。
ここに来た時に言っていた通り、この町は初動で感染拡大を食い止めた。
それは人口が密集していないからだとかそういった理由もあるが、単に運が良かったというのもあるだろう。
またこの町は殆どが山に囲まれている。
山に囲まれているから安全、それもあるのだが、そういう話ではない。
この隣町も、その隣も、まだまだ田舎というに相応しい場所なのだ。
パンデミック初期、人口の多い都市部を避けようと逃げた人も相当数いただろう。
その人達は多少安全そうな場所を見つけたなら、取り敢えずその場にとどまることを選ぶだろう。
わざわざ冒険をして実はそこはさらに危険な場所だった、などということになっては目も当てられないからだ。
その安全そうな場所、というのが都市部からこの町に来るまでの道中にあった寂れた町だ。
ここと大して状況の変わりないそれらの町の中にも、無事にコミュニティを築いている人々がいるだろう。
だからだろう、じいさん曰くパンデミックが起こってからすぐにはこの町に来た人は殆どいなかったらしい。
それからしばらく経って、この町に集団が訪れた。
しかしそれはゾンビ共からの逃亡者ではなく、略奪者だった。
すでにその頃には分散して避難していた町民達だったが、そのうちの一つの建物にいた者達が、無残な目にあった。
パンデミック初期の頃からある種の覚悟を持っていたじいさんだったが、その出来事で町民達の殆どが、同じように覚悟を決めた。
町内から食料など物資の類は全てそれぞれの避難場所に回収していたが、それを知らぬ略奪者共が物資探索に町に出かけた時、接触を図って来た時など、そんな機を見て、町民達は略奪者を殺していった。
この町には猟をしている者達もおり、武器の類は他の田舎町よりも豊富にあったのが大きいだろう。
町民の被害も勿論あったが、しかしそんなことを繰り返し少しずつ数を減らしていったそいつらは、やがてこの町から逃げ出した。
周りにいる全ての生きている人間が、自分達の命を狙っているのだと知れば当然の話だろう。
「この町のやつらは皆が皆、顔を知っておった、小さな町だからな。それにその復讐心だけではない。やつらが奪う者ならそれはわしらが死ぬまで続く。ならばやつらの命を奪わねば終わらん。」
そんなことなど言わなくとも、町の皆が略奪者共を殺したことに俺が悪感情を抱くことなどないのだが、しかしじいさんはそう言及する。
「なるほど、な。」
「それ以来だ。もう余所者は受け入れるのをやめようと皆で決めたのは。」
俺が殺した警察署に来た男のように、助けを求めてきた者が、実は略奪者の仲間だったりするかも知れない。
女子供だって、絶対にそうでないとは言い切れない。
町の仲間が一度酷い目にあって、そう決めたのは不思議な話ではない。
「……では何故、あの時俺を引きとめた?」
「そんなこと、言わなくてもわかるだろう?孫娘を連れてきてくれた。そのモモも、タケ坊も、柳木君を引きとめた。そこではいさよならとは言えんよ。昨日今日で、あの二人が柳木君に懐いておるのもわかる。わしとしては正直いつまでだっていてもらって構わんくらいだ……だが、町の皆がそうではない。」
この場所に避難しているのは、主にこの道場に通っていたりした、じいさんと密接な関係にある者達ばかりらしく、当然タケルとモモも幼い頃から可愛がられてきた間柄だ。
彼らからしても二人を助けた俺には感謝の気持ちがあるらしく、じいさんの気持ちもわかるのだろう、だからこそ何も言わず俺を迎え入れてくれた。
だが、他の場所に避難している町民から今日反発の声があったらしい。
「わしらは柳木君を庇ったし、何人かそれに賛同する人もおった。だが町の皆の結論は、出ていって欲しい、という話だった。」
「まあ、当然の話だな。受け入れないと決めたのならば、その方が自然だろう。」
じいさんが何か悪気があって俺にそう言ったのではないことは、分かっていた。
同じ言葉を告げたあの時の織田さんのように、敵意などは感じられなかったからだ。
何かしらのやむを得ない事情があって、仕方なくその言葉を口にしている。
織田さんは集団のために、じいさんは集団で決めたことのために。
「そんな顔をしないでくれ。むしろそんなつまらないことでこの町の人達が不仲になるようなことがあっては、俺としてはそっちの方が問題だ。」
だからこそ俺は出来る限り明るく、唇を噛んで眉間にしわを寄せるじいさんに向かってそう言葉を続けた。
朝出ていったにしては随分と帰るまで時間がかかっていたと思ったが、そういう話し合いもしていたということか。
そして、奇しくも俺が昼間疑問に思っていたことについても、その答えは出たというわけだ。




