六十二話
ドアが閉まり、カエデは俺をちらりと一度見てからその視線を外し、その場に立ち尽くした。
「まあ……座ったらどうだ。」
唇を噛み佇むカエデに、俺はそう声をかける。
ユキを伴いこうして来て、そしてユキはここからいなくなった。
何かユキには聞かれたくない話なのだろうか。
壁を背に床へと座る。
隣に座るかと思っていたが、カエデはおっかなびっくりと言った様子で側へと近づいてきては俺の対面に正座をした。
「どうした、何かあったのか?」
努めて優しい声でそう話しかければ、あの時少しだけ切られた首元に包帯を巻いたカエデは、正座したその膝に置いた手を、ぎゅうと強く握った。
そもそもカエデは、おそらくは未だ"威圧"スキルの余波の残滓で、俺に対し恐怖の感情を抱いていると思われる。
俺を見ようとせず、僅かに震える身体が、それを物語っていた。
「……あの。アザミさんに、まだお礼を、ちゃんと、言えていなかったので……」
「……あぁ。何、気にしてない。」
あんなことがあったばかりなんだから仕方ない、と言いかけたが、とても言葉には出来なかった。
「……私は、アザミさんに、助けられてばかりです。」
「出会った時、取り敢えず助けると言ったのは俺だ。」
「っ……」
カエデの震えた声に対し、俺はまたも気にするな、と言う。
いつもと違い俺の目をまっすぐには見ずに、それでもなるべく視線を合わせようとちらちらとこちらに視線を送るカエデを見て、やはり、未だに俺のことが怖いのだろうと思う。
その仕草に、ちくりと胸に痛みが走る。
「……とても、とても、アザミさんに感謝してるんです。本当です。」
「そうか。」
「はい……でも、そんなアザミさんのことが、何故だか今、いえ、あの時から、ずっと、怖いんです。」
「……そうか。」
まさかカエデ本人からそれを言われるとは思っていなかった俺は、何と返していいかわからず、ただそう言うしかなかった。
俺に対する畏怖の感情を抑え込んでいるのだろう、カエデは口を結んでぐっとそれを耐えている様子だった。
部屋の中に沈黙が訪れるが、やがてカエデは顔を上げると、その瞳を潤ませて俺に言った。
「……アザミさんに、触れてもいいですか?」
「構わないが……」
先程までと違い、カエデはじぃと俺の目をまっすぐに見つめてきた。
そこから涙が溢れそうなのに、何処か力強さを感じるその視線を受けて、俺は少々気圧されながらも、頷く。
カエデは中腰になると俺の肩へ手を伸ばした。
ちょん、と一度触れてはその震える手を戻し、今度はしっかりと触れて来る。
そしてカエデは、そのまま俺へと倒れこむように抱きついて来た。
「お、おい。」
「ごめんなさい。アザミさんを、こんなふうに思ってしまうなんて。」
俺に身体を預けながらも、なおも震えるその身体と声で、カエデは謝ってくる。
「自分でも、どうしてこんなに怖いのか、分からないんです。私はこんなにアザミさんのことが……」
「……」
俺は黙ってその言葉の続きを待つがそれは語られず、その代わりにカエデはぎゅうと俺の体にまわした腕に力を込めた。
耳元でぐすぐすと鼻をすする音が聞こえて来て、この状況をどうすればいいものかと狼狽していると、カエデが小さな声で言う。
「……頭、撫でてくれますか?」
その要求に応じて頭に手を置けば、カエデは一瞬びくりと身体を跳ねさせる。
その反応に手を離そうかと思ったが、カエデは甘えるようにさらにその身体を俺へと寄せて来た。
「まだ、怖いんです。怖いけど、こうしていれば、きっと、それもなくなると思うんです。」
ぶるぶると震えながらもカエデは言う。
「……無理しなくてもいいだろう。」
「嫌です。アザミさんのことを、こんなふうに思ったままでいるのは嫌なんです。」
その言葉に俺は離そうとしていた手をそのままに、カエデの頭を撫でた。
赤子をあやすように、子供を慰めるように。
俺だって、カエデに怖がられたままでは、気分は良くない。
それは単に嫌だとかそういう話なだけではなく、さっきまで考えていた、俺を化け物と言ったやつらの目が脳裏にちらつくからだ。
今のカエデは、"威圧"スキルの余波でこうなってしまっているだけだ。
こんな荒療治紛いなことをしなくとも、きっと時間が経てば、その効果も徐々になくなっていくだろう。
だが俺が超常の力を見せた時、カエデはそれこそ心から俺に恐怖するかもしれない。
その考えが、俺の胸の中をかき乱した。
カエデの震えがその想いを抱いた俺へと伝わり、小さな頭に置いた手に僅かばかりの震えが走る。
「……アザミ、さん?」
「なんだ?」
「いえ……なんでも、ないです。」
その手の震えにカエデも気づいたのだろう。
そう声をかけるカエデだったが、それを深くは気にはしなかったのだろう、また身体を預けるようにその腕に力を込めてきた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
気付けばカーテンの隙間から差していたオレンジ色の光は無くなっていて、部屋の中は暗闇に包まれていた。
いつの間にかカエデの泣き声も止んでいて、感じていた激しい鼓動も静かなものへと変わっていた。
首にまわされた腕の力も抜けていて、カエデの静かな呼吸が耳元をくすぐる。
「……あっ、あの。アザミさん。」
「……ん?」
長らく沈黙していた部屋の中、カエデがぽつりとそう言うと、落ち着いていたかに思えた彼女の心臓の鼓動が、また激しく脈動する。
「も、もう、大丈夫、だと、思います。」
その言葉に俺がカエデの頭から手を離すと、カエデはゆっくりと俺から離れ、また対面へと座った。
部屋に入った時のように、ちらりちらりと俺を見るカエデだったが、しかしその視線はその時とは違うもののように感じる。
「あっ、あの。ごめんなさい。こんな、甘えるようなこと、しちゃって……」
見れば顔を赤くし、恥ずかしそうにするカエデの姿がそこにはあった。
そこに恐怖の感情など、ないように見える。
ただ、さっきまでのやりとりを思い出しているのだろう。
そんな様子のカエデを見ては、なんだか俺も恥ずかしくなってしまい、苦笑する。
「いや……もう、怖くないのか?」
「……はい。」
「それなら、良かった。」
「はい。私も、良かったです。」
そう言って、カエデは照れながらも笑顔を俺に向けた。
「あの、アザミさん。」
「なんだ?」
そう俺に呼びかけるカエデは、もじもじといった様子で正座した膝の間に手を入れていた。
しばらくそうしてから、上目遣いでカエデは口を開いた。
「……また、いつか、頭撫でてくれますか?」




