五十四話 不二楓9
上着をめくられ肌を露出した私が、その先にある絶望をいよいよ間近に感じ始めたその瞬間、バキリと鈍い音を立てて部屋のドアが開かれました。
そこには、アザミさんが立っていました。
「くっ!」
男はそれを見てすぐさま体勢を変えて私の後ろへと回り込み、喉元にナイフを当てながら首に腕を回して引っ張り私を起き上がらせました。
「う、動くなよ、声も出すな。くそっ、くそっ。」
先ほどまでとは違い、刃の部分を押し当てられて、今にもぷつりとそれが私の皮膚を貫通してしまうのではないかと、気が気でありません。
「中に入ってドアを閉めろ、静かにだ。」
男は小さい声で言葉を投げかけました。
アザミさんは黙ってそれに従って、一歩部屋へと入り、言われた通り静かにドアを閉めました。
「鍵が壊れてやがったのか、くそっ……」
ドアの前に立つアザミさんと、そのまま壁際まで後退する男と私。
「お前も声をあげるなよ……」
乱れた服の上から手を回されて、耳元で男が小さくそう言いました。
当てられたナイフが怖くて、勿論声を出すことも出来ず、本当に小さく上下に顔を振ることで反応を示します。
涙でぼやけた目でアザミさんを見れば、そんな私の様子を見てか、眉間に皺を寄せてぐっと唇を噛んでいました。
「くそっ、くそっ……」
耳元で何度も男はそう繰り返します。
もうこの状況では男に逃げ道はなく、しかし同時に、私の命もさらに危うい状況になっているのを感じました。
どうにも動けない状態になっている時、アザミさんがじっと私の方を見て、ふいに小さく声を出しました。
「……目を瞑ってろ。」
「喋るなって言ってんだろが!本当に殺すぞ!」
男もまた小さくそう叫んでは、さらに強くナイフを私に押し当てました。
ちくりと首元に痛みが走りました。
私は、せっかくアザミさんが忠告してくれていたのに、それを厳守することが出来ず、あげくこんな目に遭ってしまった。
何でも言うことを聞くなんて自分から言った癖に、ホームセンターで感染者を殺すことが出来ないばかりか、ただ警戒しろと言われたのを守ることすら出来なかった。
目を瞑っていろ、と言うアザミさんの目的が何かはわからないけれど、私は、今度こそアザミさんの言うことを、ちゃんと聞かないと。
私は、アザミさんの言葉通り、ぎゅっと目を瞑りました。
溜まった涙がさらに溢れ出て、頬を伝います。
と、その時でした。
ビリビリとした、耐え難い畏怖の感情とでも言えばいいのか、それが胸の奥から込み上げて来ます。
首元に当てられたナイフが先程私の皮膚を少しだけ切り裂いたことからなのか、目を瞑っていることで何も見えなくなった不安からくるものなのか、それはわかりませんが、とにかくその恐怖は酷いプレッシャーとなって私の全身を粟立たせました。
私を拘束する男の腕が、唐突にぶるぶると震えだしたのを感じます。
その震えで、ひたひたとナイフの刃先が私の首元をくすぐり、それがまた私の恐怖の感情を増幅させました。
そして私がそれらを感じたのとほぼ同時、ぶわりととても強い風が吹きました。
「なっ……」
そう男の声がしたかと思えば、私のお腹に回された男の手の拘束はいつの間にか解けていて、カシャンと何かの落ちる音が聞こえました。
「……カエデ。もう、目を開けてもいい。」
気付けば先程まで感じていたプレッシャーも無くなっていて、アザミさんのその言葉で恐る恐るゆっくりと目を開きます。
私の目に映ったものは、床に落ちたナイフと、そして男を床に這いつくばらせその両手を後ろに回させ拘束するアザミさんの姿でした。
「お、お前っ、今っ、消えっ……」
「"黙れ。"」
「ひっ……」
男が喋りかけたそれに被せるようにアザミさんが静かにそう言うと、また、先程と同じようなビリビリとしたものを全身に感じます。
「"今度は俺が命令する番だ。今から質問するから小さな声で正直に答えろ、死にたくなければな。"」
「わ、わかった、わかったから……」
アザミさんがさらにそう言うと、私の奥から恐怖の感情がまたじくじくと湧いて来ました。
それはどんどんと膨れ上がり、抑えきれないほど大きなものになっていきました。
感染者と相対したときなんかとは比べ物にならないほどの、恐怖。
いえ、それどころか、男に襲われて汚され、さらに命を落とすかもしれないという恐怖よりも、さらに強いものが胸の奥から込み上げてきました。
私の体はいつの間にかガクガクと震え、吐き気を催し。
「"……見張って……な?あ……お前の……だな?"」
酷い耳鳴りを伴い、涙がボロボロと溢れて。
「"他に……仲……いるな?アジ……どこだ?"」
足に力なんて入らずその場へとへたり込んで、アザミさんと男の話している内容のその殆どが、全く聞き取れない状態でした。
これは、アザミさんへの、恐怖の感情だ。
アザミさんが、怖い。
今もなお男を強く床へと押し付け、その耳元で何やら喋っているアザミさんの顔を、見ることができませんでした。
いつも優しいアザミさんを、こんな風に思ってしまうなんて。
でも、とても、とても、怖いんです。
「……カエデ、大丈夫だったか。」
その声で、ふっ、と急に、私を縛り付けていた圧力のようなものが、消えました。
声のした方を見れば、いつものような優しい顔をしたアザミさんがそこにいました。
嘘のように全身を粟立たせていた感覚は消えましたが、しかし、先程私が襲われて殺されかけたかもしれないという事実に対する恐怖と、そして何より、アザミさんに対する畏怖の感情は、未だ私の心の中に大きく刻まれていました。




