四十一話 雪ノ下すみれ2
彼女は私の姿を見るや否や、急にこちらのベランダへと侵入を試みた。
廊下でばったり会った時は華奢な人だと思っていたが、どんな力が込められているのか勢いをつけることもなく、その細腕でバキバキと仕切りのプラ板を破っていく。
あれは、感染者だ。
正気を失ったような濁った瞳、割れたプラ板に腕が刺さって血が流れても意に介さずこちらへと手を伸ばすその狂気。
どれもネットで見た話の通りだった。
やはり、音が何かなんて確かめなければよかったのだ。
私は泣きそうになりながら玄関へと走った。
スマホも、用意していたリュックも、そんなの気にしていられない。
靴箱に置いてあるダイエットを始めてから使っているランニングシューズを取り出して、急いでそれを履く。
震える手で靴紐を乱暴に、しかし強く結び終えた時、後ろでガシャンとガラスの割れた音がした。
「ひっ……」
声にならない悲鳴をあげて振り返れば、部屋へと感染者がガラス戸を破って侵入してきていた。
私は急いで部屋を飛び出した。
鍵をかけるなんて悠長なことはしていられない、そもそも部屋の外を確認する間もなかった。
幸いにも廊下に感染者の姿はなく、私は非常階段へと走り出した。
エレベーターで降りて、扉が開いたらやつらが沢山いましたでは洒落にならない。
それを考えるだけの頭が残っていたことに感謝だ。
震える足をなんとか動かして、階段を降りる。
降りた先、なるべく静かにドアを開けると、駐車場には複数の感染者の姿があった。
まだ、こちらには気づいていない様子だった。
もう、引き返すことなんてできない。
部屋に引き返しても、あのお隣さんの"仲間入り"をするだけだ。
私は覚悟を決め、なるべく音を立てぬよう静かに走り出した。
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家のベランダから見る通りは感染者で溢れていたので、裏路地を使って市役所へと急いだ。
市役所へ行くルートはいくつか候補はあったが、選んだ道が良かったのか、それともただただタイミングが良かっただけなのか、道中は感染者の姿もそれほどおらず、少しずつだが着実に目的地へと近づいていた。
感染者に見つからないで進むのはさすがに不可能だったが、ネットで見た通り、感染者はゆっくりと歩くことでしか私を追っては来なかった。
体力を持たせるために全力では走らず、日頃のジョギングよりも少し早い位のペースで走る。
恐怖のせいか随分と息が上がるが、それでも大丈夫、まだ走れる。
市役所へいくには、なんにせよ一度大通りに出なければならない。
大通りは感染者の数が多い。
ギリギリまで出ないようにして進まないと。
そして、やっとの思いで市役所の側へとたどり着いた私だったが、大通りに出なければならないここからが正念場だ。
後ろからはゆっくりとだがしかし確実に感染者たちが近づいて来ている。
諦めてくれればいいものを、いくら距離を離してもやつらはしつこく追ってきていた。
と、決死の覚悟で大通りに出ようかとした私の耳に突如声が届いた。
男性の低い叫び声と、そして男女の悲鳴だ。
大通りのゾンビの目と足は、何やらその声のした方向へと向いている。
これは、千載一遇のチャンスなのかもしれない。
私は前後左右を確認し、すぐ側に感染者がいないのを確認すると、大通りへと出た。
すぐに市役所の方向へと走る。
叫び声は、市役所の方から聞こえてきたものだったのだろう。
ロビー前の日除け屋根の上に人の良さそうなおじさんが居て、その下にたくさんの感染者が群がって居た。
あちらに行っても、私が助かる見込みはない。
隣の警察署の方へ目をやれば、縄はしごが二階から下がっているのが見えた。
敷地内に足を踏み入れれば、そこから少し離れた場所に感染者に追い立てられる男女の姿があった。
二人とも、私と同じ20代くらいだろう。
男性は腕から血を流し、かたや女性は足から血を流して、その怪我をした女性を鉈を持った男性が庇うように感染者達から逃げていた。
しかしすぐに二人は捕まり、そこにやつらが殺到し覆いかぶさっていく。
感染者達は、目の前の"餌"に夢中だった。
……今なら、いける。
私の頭は自分でも驚くほどに、冷静だった。
すぐさま私ははしごへと走り手をかけた。
その頭とは真逆に、はしごを上る身体はひどく重かった。
単に、今にも後ろから襲われるのではないかという感染者への恐怖がそうさせているのかもしれない。
それとも見知らぬ誰かではあるがそれを犠牲にして、自分だけが助かろうとしているそのことに、罪悪感を感じているのかもしれない。
けれどそんなことなど気にしている場合ではなく、私は必死で手足を動かした。
「うっ……」
がくん、と私のその身体が下から強く引っ張られた。
感染者の手が、私の足をつかんでいた。
ぐいぐいととんでもなく強い力で下に引かれ、ともすればはしごを掴むその手を離してしまいそうだった。
あと、一歩じゃないか。
せっかくここまで来たのに、他人を犠牲にしてまでこの糸をつかんだのに。
私ははしごを掴む手に渾身の力を込めて、掴まれた足を上へと引っ張り上げる。
強い抵抗があったが、私の履いていた靴とともにずるりと感染者の手が落ちた。
また掴まれたりしないように急ぎ両足を上げるようにしてはしごを上っていく。
もう、やつらの手は届かない、そんな位置に来て気付けば、はしごの降ろされている窓から無精髭の男の人が、怖い顔をして血で汚れた地面を見下ろしていた。
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私はその後身体チェックをされ、無事に避難所へと保護された。
無精髭の男の人は織田さんという人で、ここの署長さんをしていたらしい。
織田さんの話では、どうやら私はここに初めて無事避難出来た人らしかった。
ここまでたどり着いた人はみんな、下にいる男女二人のように、目の前で死んでしまったらしい。
私がここに避難してからも、同じように下で感染者に襲われ命を落とす人をたくさん見た。
部屋を出たあの時、リュックを背負って部屋を出ていたら、果たして私はここに無事避難出来ていたのだろうかと今になって思う。
重いリュックのせいで、ここまで走る体力が持たなかったかもしれないし、はしごで感染者に足を掴まれた時振りほどけなかったかもしれない。
いや、そもそもあのタイミングで部屋を出たからこそ、道中感染者に囲まれることなくここまで着いて、そしてあの男女があそこにいて……
そう、私はただ、運が良かっただけなのだ。




