四十話 雪ノ下すみれ1
今思えば、私は運が良かった。
パンデミックが起きたあの日、私は疲れ果てて家に帰ると、化粧だけ落としてすぐベッドに入りいつの間にか眠り込んでいた。
スマホもマナーモードにして、最近小さな地震でもうるさかった緊急警報も音量をオフに設定していた。
だから気付かなかったのだ、外があんなことになっているなんて。
変な時間に寝たせいで夜中目が覚めた私は、その目を覚まそうとベランダへと続く窓を開けた。
窓から見える外はこんな時間なのに、やけに人の姿が見えた。
皆ふらふらと足取りも頼りなく、道路の真ん中を平然と歩いている人も沢山いる。
不思議に思っていると、遠くで悲鳴が聞こえた。
途端、ぞっとして一気に眠気が吹っ飛んだ。
その光景が見たまんま異常なことに気づいて、私は静かに窓とカーテンを閉めた。
スマホで普段見ている匿名掲示板を見れば、ゾンビだのなんだの、恐ろしい内容のスレッドがずらりと並んで居た。
家にテレビは無い。
ネットで情報を集めれば、これがどうやら冗談や何かではなく、本当に今現在起きていることだと知った。
私はすぐに田舎に住む家族に電話をかける。
電話は、繋がらなかった。
一度切りまたかけ直しても、結果は同じだった。
チャットツールやメールでも連絡をしてみると、ややあって、返事が返ってくる。
良かった、どうやら家族はみんな無事らしい。
私は次に先輩へと連絡をしたが、その返事がくることはなかった。
今週から、先輩は連絡もなく会社を休んでいた。
何かあったんだろうか。
それにしたって、こんな時にまでも連絡がつかないなんて!
大学時代の友達や地元の友達に連絡をしてみるが、返事はまちまちだった。
地元の友達の方が、少しだけ返事の帰ってくる割合が高かった気がする。
みんな、無事で居てくれればいいのだが。
緊急警報では付近の指定避難所へいくことと書いてあったが、今更行くにしても、もう外は危険だろう。
このまま家に閉じこもるしか無い。
この騒ぎはいつまで続くんだろう。
きっと警察かなんかが、解決してくれるはずだ。
そうでなければ、私は外に出られないまま、ここでずっと過ごさねばならない。
食料は足りるのだろうか。
こんなことなら、自炊をしておくんだった。
それならばまだしばらくは立て籠もることもできたろうに。
冷蔵庫を開けて、今日の分として買ってきていた半額シールのついたお弁当と、翌日の朝食の分のパンがぽつんとそこにあるのを見て、私は唇を噛み締めた。
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無様にも眠りこけていて、不覚にも緊急警報の音量を下げていたことでそれに気付かず、避難所へ移動することもできずにただ家に立てこもるしかなかった私だが、しかし翌日になって、それはむしろ命拾いした結果となったことを知った。
どこの避難所も、酷い有様だった。
事実かどうか、それはわからないけれど、ネットでの話では夜のうちにたくさんの避難所が崩壊していたようだった。
ある場所は感染者達が押し寄せて来て。
ある場所はすでに噛まれた人がいたせいで、避難所内部から感染者が発生して。
学校の校舎の上の方へと逃げ延びたという生存者の書き込みの類も、多数掲示板やSNSにあった。
まさにゾンビ映画そのものの出来事だった。
現実で、こんなことが起こるなんて。
私が避難所へ行っていたら、真っ先にその仲間入りをしていたことだろう。
いや、外の様子があれでは、そもそも避難所にすらたどり着けなかったかもしれない。
ともあれ私は、そんな自分の間抜けさに、命を救われたのだ。
+++++
ネットで情報を集めていた。
と言うより、今の私にはそれくらいしか出来ることがなかった。
外にはやつらが溢れているし、あっさりとこれが解決してくれるような様子もない。
警察に電話をしようにも繋がらず、ネットで救助を呼ぼうにも同じような書き込みがたくさんあって、これでは国が助けに行こうにもどこから行けばいいか。
一応SNSなどに個人情報なんのそのとマンションの場所を書いては見たが、果たしてたとえ救助しにきてくれるにしても、その順番はいつになるのか。
先輩からまだ返事はない。
メールで家族とやりとりをしながらネットの海を彷徨っていると、一つの書き込みを見つけた。
避難所の情報だ。
どうやら近くの市役所と警察署が、新たに避難所として開放されているらしい。
ただし縄はしごを使って上れないとダメと書いてある。
年配や子供だときついかもしれないけど、私なら大丈夫だ、体力には自信がある。
でも、近くとは言え隣というわけじゃない。
どうやってあそこまで行けばいいんだろう。
家にはもう、買って来ていたパンしかない。
これが尽きたら、食べ物はもう終わりだ。
せめて冷凍食品かインスタントくらいはストックしておくんだった。
先輩と家族に、市役所へ行こうと思うとメールを送った。
家族からは救助を待てと引き止められた。
先輩からは、相変わらず返事はなかった。
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その翌日。
メールを送って、バッグに必要そうなものを詰めて家を出る準備もしているものの、しかしそれでも私はまだ外に出る決心が付かずにいた。
外の感染者を窓から見れば、やはりあの中を私が無事に市役所へとたどり着けるとは思えず、二の足を踏んでいたのだ。
しかしこのマンションの一室に、食料はもう無い。
決断しなくてはならない。
何かいい方法はないか、情報はないかとスマホからネットを見ている時だった。
突然、ネットに繋がらなくなった。
スマホを再起動してみるが、直る様子がない。
壊れたのかと他のアプリを起動するが、そちらは問題なく動いていた。
電話回線だけでなく、ネットも使えなくなったのだ。
愕然とする私だったが、それに追い打ちをかけるかのように、突然バキリと硬いプラスチックが割れるような音が窓の外から響いて、体を震わせた。
ごん、ごん、と鈍い音がすぐ近く、ベランダから聞こえてくる。
見に行っては、いけない。
映画かなんかでは、そんなの見に行かなければいいのにといつも思っていた。
それでも身体は何かに操られたかのように動いてしまう。
そんなの、確認しなければいいのに。
私は閉めたカーテンと窓の隙間からそっと音のする方を窺った。
目が、あってしまった。
隣の部屋に住む、数回しか会ったことがないし、名前も知らない、大学生っぽい女の人だ。
ベランダの仕切りのプラ板には老朽化のせいかわからないが元々ヒビが入っており、それが割れてしまったようだった。
割れた隙間からこちらを覗く彼女の目は、酷く濁っていた。




