三十六話
階段を上りスタッフルームへと戻ろうとしたが、カエデは防火扉の外で膝を抱えて座り込んでいた。
その場所にいるのは、気配感知で知ってはいたのだが。
「……部屋に戻ろう。」
へたり込むカエデの腕をぐいと引っ張り立たせる。
ふらりと頼りない足取りで歩くカエデをそのまま部屋へと運び、ソファへと座らせた。
その手の震えを抑えるかのように、両手を膝の上に押し付けては、カエデはその手と同じく唇を震わせて、言った。
「……ごめんなさい。ちゃんと、出来なくて。」
ともすれば、罵倒の言葉でも言われるかもしれない、そう思っていた。
どうしてこんな酷いことを、と。
勿論考えあってのことだし、それに対する答えも用意していたが、少々肩透かしを食らったような気持ちだった。
俯くカエデはそのまま沈黙して、俺の返事を待っているようだった。
俺はオフィスチェアーをカエデの対面へと持ってくると、それに腰掛ける。
親の叱責を受ける幼子かのように、ただ口を閉じ、目を伏せるカエデに、俺は声をかける。
「いや。すまなかったな。これくらいしか、方法を思いつかなかった。」
その様子を見ては何か罪悪感のようなものが生まれてしまい、本来であれば言うつもりのなかった、謝罪の言葉がまず口をついた。
「ゾンビに対する恐怖心を少しでも取り払おうと思った。避難の時今のように足がすくんで力が入らないとなったら困るからな。」
「そうだったんです、ね。それじゃあ、私は、全然ダメでした……」
「……そうだな。これが当日じゃなくてよかった。」
「はい……」
うなだれて返事をするカエデだが、しかし俺はさらに責め立てるかのように言葉を続けた。
「また後で、同じことをして貰う。カエデがゾンビに慣れるまでな。」
「っ……」
顔を上げ、懇願するかのような瞳を向けるカエデだが、俺はそれをただ無言で見つめ返した。
やがて観念したのか、カエデは一度口を固く結ぶと、
「……わかり、ました。」
小さく、そう頷くのだった。
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連日降り続いた雨も止んで、小窓から覗く空は青かった。
絶好のドライブ日和といったところか。
あれから数日が経ち、今日はいよいよカエデを警察署へと運ぶ日だ。
結局、カエデは拳銃の引き金を引くことは出来なかった。
やはりいくら死んでいるといっても、元々人間であったものをまた殺すことに忌避感を抱いているのであろう。
それは普通の人間にとって、ごく自然なことではあるだろう。
父親に"いいこ"と言われていたカエデにとってみれば、余計にだ。
しかし今のこの世界で生きるということにおいては、その感情は邪魔なものでしかない。
俺はカエデに、いつかゾンビを殺せるようになれ、と言った。
それへの返事は頼りないものであったが、俺の言わんとしていることは伝わっているようだった。
何より父親の手紙に書いてあった、なにをしてでも生き延びてくれ、というその言葉に従うのであれば、カエデが選択しなければならないその答えはあらかじめ決められているようなものだ。
そう、たとえゾンビを殺すことがカエデにとって"悪いこと"だとしても、それはいつかしなければならない。
カエデは引き金を引くことはできなかったが、しかしゾンビという存在に対しては多少慣れたのではないかと思われた。
未だ拳銃を持つ手は震えていたが、その足取りは銃を初めて持たせたあの日よりは大分としっかりとしたものになっていた。
またカエデ本人の口からも、少しは慣れました、と言葉を貰った。
あの様子なら、警察署に着いた時もまあ大丈夫だろう。
「準備は出来たな?」
スタッフルームにいるカエデに声をかける。
「はい!」
長い髪を後ろでまとめて、パーカーにジャケットと言う出で立ちのカエデは、リュックを背負い、どこか気合の入った返事をした。
話では、俺のあげた服はあの中にしまっているらしい。
別に置いていってもいいんだがな。
織田さんから貰ったプロテクターを着けさせようか迷ったが、どうせ俺が守るんだ、はしごを登る時少しでも動きやすいように、カエデにはケブラー繊維のカバーだけを服の下に着けさせた。
「あの、少しだけ、時間貰ってもいいですか?」
スタッフルームを出ると足を止めたカエデが俺へと尋ねてくる。
「構わないが……どうした?」
「最後に、お別れだけ言いたくて。」
そう言うとカエデは、封印されているかのように、そのドアの前に家具の積まれた女子更衣室の方へと歩みを進めた。
死んだ母親への、挨拶か。
「……開けようか?」
「いえ。大丈夫です。」
カエデは静かにそう言うと、その前に立ち目を瞑り祈るように両手を合わせた。
もうここへは戻って来ることのないことがわかっているのだろう。
神妙な顔つきで瞳を閉じるカエデは何を想っているのだろうか。
そのまましばらくして、カエデは目を開き、こちらを向いた。
「……お待たせしました。」
「もういいのか?」
「はい。」
カエデは晴れやかな顔つきで、そう返事をする。
「……お父さんには挨拶出来ないけど、その代わり、このリュック、お父さんのなんですよ。」
ものは同じなんですけどね、と付け加えて、カエデはリュックの肩ベルトをきゅっと引っ張っては、にこりと笑った。
「……そうか。それじゃあ、そろそろ行くとするか。」
「はい!」
カエデは決意を秘めたかのような、キリリとした表情を俺に向けた。
これにて一章終了でございます。
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