一話
まばゆい光に目を細め、気がつけば俺は見慣れた部屋に立っていた。
異世界転移する前に住んでいたマンションの一部屋。
駅からは少し歩くが、4階の8畳間取り1kのフローリング風呂トイレ別で値段も手頃な穴場物件で見つけた時は大層喜んだものだ。
「三年振りともなれば見慣れた、ってこともないか」
締め切ったカーテンから微かに暖かな光が差す。
確かあちらの世界に転移したのは、仕事が終わってさあ週末だ、と帰宅してしばらくたった肌寒い夜の事だった。
ベッドボードに置いたカレンダー機能付きの時計を見る。
そこには4/20(月)15:00と表記してあった。
「……は?」
思えば、転移した日と比べて随分と暖かいような気がする。
俺がこの部屋から異世界へ転移したのはまだ三月の末のはずだった。
「一ヶ月近く経ってるのかよ……」
なにがそう時間は経ってないはず、だ。
そりゃ三年と一ヶ月じゃだいぶ違うが、一ヶ月も無断欠勤したらこっちの世界での生活がどんな事になるか。
俺は慌ててベッドの上に転がっていたスマホを手に取り操作する。
「……当たり前か」
電池切れ。
一ヶ月も放置されていれば当然の事だった。
取り敢えず充電ケーブルにスマホを差し込み、今更焦ってももう仕方ないとまずは着替える事にした。
今の出で立ちは異世界で装備していた鎧姿。
このまま外に出ては無職生活の前にすぐに警察の厄介になってしまう。
装備を外し部屋着に着替えると、親指にはめた指輪が目にとまり、ふと思いついた。
「アイテムボックス……まだ使えたりするのか……?」
指輪に異世界でやったように魔力を込めてみる。
魔力を空間に飛ばすことの出来ない俺に、ロベリアが作ってくれたマジックアイテムだ。
ブゥン、と指輪のそばに小さな次元の穴が開く。
「開いちまったよ……」
手を突っ込んで物を出し入れする。
問題なく機能しているようだ。
指輪と魔力量の都合上、他の仲間のように大容量とはいかなかったのだが、それでもこのアイテムボックスはこの世界で随分とチートなんじゃないだろうか。
……悪いことに使う以外はなんとなく便利くらいの価値しかなさそうな気もするが。
次に俺はテーブルの上に置いてあった、中身のコーヒーを飲み終えたスチール缶を手に取った。
アイテムボックスは使えた、ならば身体能力はどうなったのかと思ったのだ。
やや震える手で人差し指と親指で缶の上部を掴む。
そのままぐっと力を込めると、まるで万力でも使ったかのようにぺしゃりと苦もなく潰れるのだった。
「後で色々確かめる必要がありそうだな……」
向こうでの能力が全てそのままなのであれば、ほとんどのスポーツ、特に格闘技や陸上など道具を使わないものであればすぐにでも世界一になれるだろう。
もっとも、かなり手を抜かなければ大変なことになるであろうし、そもそもそんな目立つような生活は正直御免被りたいが。
蓄えこそ多少はあるが、一ヶ月も連絡無しの行方不明でおそらく仕事をクビになるであろう現状、最悪の最悪での保険が出来たとでも考えておく。
触れた者の能力を表示してくれる、ステータスボードを向こうから持ってきていればよかったのだが。
能力についてはまた後にでも検証してみることにして、俺は空腹を感じてキッチンへと向かう。
まず目に入ったのは、冷蔵庫の下を濡らす水溜りであった。
「おいおい、勘弁してくれ……」
一月電気料金を払わなかったくらいで電気を止められるなんてこともないだろうし、停電でもあったのだろうか?
台所に置いてあるキッチンペーパーで水を片付けて冷蔵庫を開けて、理解する。
中は冷気もなく明かりもつかない。
おそらく今現在、停電しているのだろう。
「外に買いに行くか」
幸いコンビニがすぐ近くにある。
それもこのマンションを選んだ理由の一つだった。
スマホをモバイルバッテリーの方に差し込み、財布と鍵を持って玄関へと向かう。
そこにあるブレーカーを見ても、落ちたりはしていない。
地震か何かでもあったのだろうか?
転移前そんなニュースがあったのを頭の片隅に思い出し、俺は玄関のドアを開けて部屋を出た。
と、そこで今までドアの陰になっていて見えなかった方のマンションの廊下に人が立っていることに気づいた。
二つ隣の部屋あたりのドアの前で、こちらに背中を向けてゆらゆらと体を揺らしている。
短い茶髪で体格からすると男だろう、春にしては季節外れのダウンジャケットを着込んでいて、その服装は随分とそこかしこに汚れが目立った。
ばたん、と小さくはない音を立ててドアが閉まる。
ふと周りに意識を向ければ、その男の服装だけではなく、この共有スペースもかなり汚れていることに気づく。
決して小綺麗なマンションではなかったが、それでもここまで酷い状態ではなかったはずだ。
というより、この赤色と茶色の汚れは……血?
ドアの閉まる音に気づいたのか、背を向けていた人物がおぼつかない足取りで体ごとこちらを向く。
その男の顔には血の気がなく、ジッパーの締められていないジャケットから覗く腹の部分は破れシャツは血まみれで、首元は肉が抉れてだらりと斜めを向いていた。
「……マジかよ」
光を灯さない白く濁った瞳をこちらに向けられて、俺は小さくそう呟くことしかできなかった。