百七十七話
白衣を着た女性が、散らかったデスクの空いたスペースを器用に使いながら、真剣な表情で紙にペンを走らせている。
やがて彼女はその手を止めると、ふぅ、と一息ついてから、こちらを見た。
「取り敢えずは、お疲れ様。大変だったでしょう」
「別に、そうでもない。そっちこそ、なかなか大変そうに見えるが」
女性の顔からは疲れが見てとれて、当初出会った時の、キリリとしたイメージからは程遠い。
綺麗に揃えられたボブカットの髪型も、今は多少ボサついているように見えた。
「柳木さん。何か今、失礼なこと考えなかった?」
「……何を言っているのか分からんが。萩さんの身を案じただけさ」
「あら、そう。素直にありがとうって言っておくわ」
萩さんはそう言って一度眼鏡の位置を直すと、ポケットに手を入れる。
そこから煙草を取り出すと、吸ってもいいかしら、と視線を向けた。
「どうぞ」
俺がそう応じれば、萩さんは煙草を咥えカチリとライターで火をつける。
彼女はそうして一度大きく息を吸っては、白い煙を吐いた。
俺は今、数箇所での駐屯地の手伝いを終え、元いた駐屯地へと戻ってきていた。
とはいえ、全ての他の駐屯地の作業が終わったわけではない。
次に行く予定の駐屯地はこの駐屯地を挟んで今までの場所とは逆方向だったのだが、時間も遅くなりそれに加えて空模様も悪くなってきたので、夜間移動でのリスク軽減を考えて、一晩ここで過ごすことになったのだ。
諸々の報告もこうして対面でしておきたかったしな。
「ま、取り敢えず俺からの報告はこんなもんだな。状況は変わっていないように見える。それがいいことなのかどうかは置いといて、な」
状況。
具体的に言えば、それはグールの数や割合。
やつらが現れた時に危惧した、ゾンビがいずれ全てグールになるのでは、という最悪の事態の兆候は、未だ感じられない。
それはつまり、俺の想像した"経験値"が関係しているのかもしれない、ということでもある。
すでに生き残っている人間の数が少なく、ゾンビ共が"経験値"を得ることができないということだ。
まあ、その前提が間違っている可能性だってあるし、そもそも、それを知ったところで、どうにかなるような話でもないんだが。
「そう。まあ、少なくとも、悪いことではないわよね」
萩さんは足を組み直すと、そう言ってまた白い煙を吐き出した。
その姿がどうにも哀愁が漂っているように見えて、俺の口から自然と言葉が漏れた。
「……浮かない顔だな」
「あら、いつだったかと立場が逆ね」
「別に、気のせいだったらそれはそれで構わないんだが」
茶化したような萩さんの言葉にそう返すと、彼女はふぅとまた一つ息を吐いて、手に持った煙草を見つめる。
ゆらゆらと煙ののぼるそれをぼんやりと見つめてから、こちらに向き直った。
「預かっていた、エリクシールの空き瓶のことなのだけれど。純水を使って僅かに残っていた成分を分析していたのよ。柳木さんが留守の間に、その結果が出たのよね」
「ほう」
「予想通りと言えばいいのかしら。中身は、"この世界のものではないもの"と言うことしかわからなかったわ」
「……だろうな」
そいつは、最初から分かっていたことだ。
萩さんもそう思っていたのだろうが、しかしそれにしては彼女の表情は酷く暗い。
それを不思議に思っていると、彼女は遠くを見るような目で、さらに言葉を続けた。
「科学者としては、参っちゃうわよね。せっかく、希望が見えたかと思ったのに」
萩さんはそうぼやくように言うと、今にも灰が落ちそうな煙草を、静かに灰皿に押し付けた。
彼女から漏れた言葉。
それの意味するところは、彼女はエリクシールを再現したかったのだろう。
そしてそれを使い、ただかすり傷を負うだけで致命傷となり、奴等の仲間入りをしてしまうという、このふざけた状況を打破したかったのだ。
「やっと、多少は役に立つことができるかと思ったのだけれど」
また、そこには彼女なりの焦りのようなものがあったのかもしれない。
ゾンビ発生から今まで、"科学者としては役に立っていない"自分への苛立ちのようなものが。
「別に、萩さんは十分働いているだろう」
「……あら、慰めてくれるのかしら」
何気なく漏れた俺の一言に、彼女は思いの外嬉しそうに、そういたずらっぽい笑みを浮かべる。
それが少々気恥ずかしく、俺はさらに言葉を続けた。
「……最初は、なんだこの女は、と思ったもんだったが」
「もぅ」
そうは言ったものの、最初に会った時でさえ、彼女の"最低限の不必要は切り捨てるべき"、という考え方自体には、共感できる部分があった。
ある意味非情でもあり、またある意味ではとても現実的な考え方。
今現在彼女の思考がそれに傾いていないのは、単に俺という存在があるからに過ぎないのだろう。
「……しかしまあ、今となっては、萩さんが実際に頭のいいことも分かっているし、何より、医者の真似事ができるってだけで、貴重な存在だろうさ」
少し不満げな彼女の反応に、そう付け加えてやる。
それで機嫌を直したのか、萩さんは足を組み直すと、表情を和らげた。
賢く、現実的。
そんな彼女を見ていると、異世界の仲間のロベリアを思い出す。
あいつはあいつで、そんなに表には出さなかったが、色々と思い悩んでいるようだったからな。
萩さんも同じように、頭がいいやつなりに、悩みも尽きないんだろう。
今回の話は、科学者としての矜持、とでも言ったところか。
「……ま、エリクシールのことも、ゾンビのことも。今後何かわかってくる可能性もゼロって訳じゃないだろう。今はやれることをやればいいさ」
「そうね……ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない」
「……長居させて悪かったわね。あ、ちゃんとカエデちゃんに会いに行ってあげてね。寂しがってたわよ」
「あぁ」
俺はそう返事をすると、椅子から立ち上がる。
ドアを開け部屋を出る時、背後でまたカチリとライターの音がして、俺は小さく苦笑した。




