百六十一話 比嘉丈瑠2
ビリビリと空気を揺らすような咆哮が辺りに響く。
感染者の出す声といえば、かすれたような小さなうめき声。
それとは全く違う、今まで見たことのない感染者の行動に、その場にいた俺たちは一瞬、動きを止めてしまった。
「なっ……」
そう、誰かの声が漏れたのも当然の話。
先程無線機で聞いた通りのことが、目の前で起こったのだから。
その感染者は叫びながらも、俺たちの方へ一直線に駆け出してきたのだった。
……速い。
走るには不恰好な姿勢のはずなのに、信じられないほどのスピードで感染者はこちらへと向かってくる。
呆気に取られ体の固まる中、ただ一人、鈴掛先生が数歩、前へと踏み出した。
その姿を見て、俺たちは動きを止めてしまった、というのは誤りだったということに気付く。
先生だけは、いつの間にか刀を抜いていた。
そして物凄い速さで駆け寄る感染者に相対すると、僅かに軸をずらし。
……一閃。
横薙ぎに放たれた剣閃は、走り寄る感染者の脳を見事に散らした。
ずるりと頭蓋が離れるに応じ、勢いよく感染者の体が地面へと転がった。
「……こやつは、一体……」
振り向いて、ピクリとも動かない感染者の亡骸に先生が訝しげな瞳を向ける。
その頬に、汗が浮かんでいた。
すぐさま。
――ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛!!
叫び声のした方を見れば、曲がり角には複数の感染者の姿。
重なって聞こえるそれらの声からして、あれらはおそらく、全てこの地面に倒れている感染者と同じものだろう。
「タケ坊は下がっとれ!やるぞ!」
やつらからはとても逃げ切れるものではないと先生は判断したのだろう。
当然だ、あの速さでは今から車に乗り込んで、なんてしている余裕などない。
いや車に乗り込んでいたとしても、逃げ切れるかどうか。
そう先生が声を発するのと、感染者達が走り出すのは同時だった。
猟師のおじさんが先制で銃を放ち、その後先生とお弟子さん達が共に前へと踏み出した。
遅れて、走る感染者達の後ろに更に新たな感染者の影がいくつも現れる。
今しがた先生が言っていた感染者達が、軒並みこちらへと向かってきているということなのだろう。
救いなのは、それらの感染者はこれまで何度も見てきた感染者と同じように見えることか。
「走るやつらを倒したらすぐに撤退だ!気張れ!」
接敵と共にそう声を上げる先生は、向かってきた感染者の一人に先程のように斬撃を浴びせる。
しかし、更にその後ろから二体の感染者が並んで襲い掛からんとしていた。
……あれを二体一緒に相手をするなど、いくら先生でも無理に決まっている。
いや。
確信があった。
それはあの二体のうち一体は先生には襲い掛からないだろう、というある意味では嬉しい確信でもあり。
また同時に、"その一体は俺の方に向かってくるだろう"、という全くもって嬉しくない確信でもあった。
何故なら、その一体と俺は、さっきからずっと目があっていたのだから。
「ちぃ……タケ坊っ!!」
一体の感染者に横を抜けられた先生がそう声を上げる。
俺へと走り寄る感染者は、髪の長い女性の感染者だった。
その瞳はこれまで何度も見てきた白く濁った瞳ではなく、その奥に、赤い光を携えているように見えた。
バタバタとおかしな格好で走り寄る感染者が近づくにつれ、握った手斧に力が入る。
日本刀はまだまだ扱い切れないから、武器に選んでいたのがこれだった。
実戦で日本刀を試す日が今日でなくてよかったと心から思う。
「ふっ!」
力を込め、斜め上から斧を振り下ろす。
ざくりと嫌な感触がして、刃先が頭蓋骨にめり込んだ。
その衝撃で、頭に斧をつけたまま、俺の横をゴロゴロと感染者が勢いよく転がっていった。
「はっ……はっ……」
さすがに、今回ばかりは肝を冷やした。
あの速さで近付かれた中、上手く頭を狙えたと自分でも思う。
そう、息を整え自画自賛しながら気を取り直し先生の方の様子を見ようとしたその瞬間。
カラン
金属音に、すぐさま後ろを振り返る。
反応出来たのは、先生の様子を見るより先にまずは手放した斧を回収しなければ、と頭の片隅に浮かんだからということと、そして何より運が良かったから、という他ない。
――ガア゛ア゛ア゛ア!!
「くっ!!」
仕留めたと思っていた感染者は、まだ健在だった。
頭からどくどくと黒い血を流しながらも、俺へと飛びかかってきたのだった。
咄嗟にその汚れた頭を髪の毛を巻き込みながら両手で抑えたが、しかしその勢いに俺は感染者と共に後ろへと倒れ込んだ。
真上から不気味な顔つきのまま感染者がその顎門をガチガチと鳴らす。
必死に頭を抑えるが、感染者は物凄い力で俺を押し倒したまま顔を近付けて来た。
「ぐうっ……」
もう、先生達は感染者を仕留めただろうか。
先生達は強い。
だから、もう少し耐えさえすれば、助けが来てくれるはずだ。
掴んだ髪の毛がブチブチと切れる音が何度か聞こえて、徐々に感染者の顔が近付いてくる。
片方の手をするりと首のほうに滑り込ませ、喉を押し潰すようにぐっと力を込めては、必死に距離を取ろうとした。
……くそ、こんなところで、死んでられるかよ。
俺はこれからも、モモを守らなくちゃいけないんだ。
あの人と、そう約束したんだから。
「おおおぉぉぉっ!」
そう、頭の中に浮かんで、更に力を込めたその時だった。
ぶわりと強い風が吹いたような気がしたかと思えば、目の前の感染者が"消えていた"。
「……?」
……一瞬、俺は死んだのかと思った。
目の前から突然感染者が消えたという不可解な現象がそう思わせたのもあるし、何よりも。
「……無事か、タケル」
今この場所で聞こえるはずのない、聞き覚えのある声がしたのだから。
漫画版8話が更新されておりますので、そちらの方も是非是非よろしくお願いいたします!orz




