百六十話 比嘉丈瑠
初めて嗅いだ硝煙の匂いを、今でも覚えている。
正直。
"死んでいる人"を手にかけることに、大きな抵抗はなかった。
勿論最初は多少の覚悟が必要だったけど、モモのようにいつまでもそれに苦悩することなんてなかった。
映画やゲームでそんな作品を見て、アレはそういうものだ、という感覚が備わっていたのかもしれない。
ただ、"生きている人"を手にかけるというのは、どうにも俺には重過ぎたみたいで。
長い間、俺はそのことが頭から離れなかったんだ。
「……タケルっち。どうしたの、ぼーっとして」
ちゃぶ台に並べられた食事を前に、箸の止まっていた俺を訝しんだのか、そう声をかけられる。
視線を向ければ、小麦色の肌の女の子が、ふっくらとした唇を少し尖らせて、首を傾げていた。
「ん、あ、モモ。なんでもないよ、ちょっと、考え事してただけ」
そう何事もないように繕って、目の前に置かれたお椀を手に取り味噌汁を口に入れた。
あの頃、モモと二人で避難所を出た時と比べたら、今の生活はとても恵まれているように思う。
食卓には野菜が並び、時折肉も並ぶ。
お味噌汁はお出汁がいまいちきいてないけど、それでも随分と贅沢だ。
「大丈夫ー?今日もじいちゃんについて行くんでしょ?」
「あぁ、うん。本当なんでもないよ、大丈夫」
この町に着いてからしばらく。
俺はモモのおじいさんの、鈴掛先生達と一緒に、町の感染者退治に参加していた。
最初は断られたんだけど、俺が頼み込んだら渋々了承してくれたのだった。
先生の考えとしては、俺やモモは守る対象で、出来れば危険なことはさせたくはなかったらしい。
でも、いつまでも町の大人が元気でいる保証もないから、若い俺に少しでも経験を積ませるのも悪くはないか、と仕方なく許可を出したみたいだ。
きっと鈴掛先生は、俺の本当の気持ちがわかっているのだと思う。
それでもさすがにまだ、最前線には出してはくれないんだけど。
「最近、感染者がよく来るよね。なんか嫌だな……」
「まあ、そうだけど。前よりはだいぶマシでしょ」
モモの言うとおり、ここ最近、何故だか町には感染者がよく現れていた。
とはいうものの、その数は微々たるものだ。
モモと二人でいた頃は、もっとたくさんの感染者からいつも逃げ回っていたんだから。
あの日々のことを思えば、どうってことはない。
「まあねー。ほんとよく、この町まで辿り着けたもんだよー」
「だね……」
その言葉に相槌を打っては、二人して顔を見合わせる。
ちょっとだけ複雑そうな顔を浮かべるモモを見て、きっと俺もそんな顔を浮かべているんだろうなと思い、無理矢理な笑みを浮かべる。
モモも、俺に合わせるように、眉を下げながら笑みを浮かべた。
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「タケ坊、いつものようにな。前の方に出たりはするんじゃないぞ」
「はい!」
石階段を降り、側に駐車してある軽トラの荷台に、先生や猟師のおじさん達と乗り込む。
もう一台の軽トラの方にも同じ人数が乗り込んで、感染者退治へと向かった。
ガタガタと揺れる荷台の上で、周囲を警戒しながらふと、頭の中にある人物の姿が浮かんだ。
さっき、モモとあんな話をしたからだろう。
"生きている人"を殺した俺を、はっきりと認めてくれた人。
あの人に出会ってから、俺の中の煩悶が徐々に薄れていったんだ。
あの人は、とても強くて、優しくて。
あの人は、タケルらしくあればいい、と言ってくれたけど、それでも、俺はあの人のようになりたかった。
「今日は商店街の方に行く。最近近場しか"掃除"していなかったからな」
「わかりました」
「何度も言うが、死角には近付くなよ。急に接敵しない限りはノロマなやつらに遅れなどとらんからな」
「はい!」
刀を携え隣に座る鈴掛先生の言葉に頷く。
目的地への道中には数体の感染者がいたが、鈴掛先生が一人で片付けて俺は荷台から降りることもなかった。
鈴掛先生も、本当にすごい。
感染者の一人二人はいとも容易く斬り伏せてしまう。
この間なんて、同時に四人が襲いかかってきたのを一瞬で片付けてしまった。
この町に戻ってきてから先生にはたくさん稽古をつけてもらっているけど、俺は果たして先生やあの人のようになれるんだろうか。
そんなことを考えていると、やがて車は商店街の付近にたどり着いた。
高校生活を都会で過ごしたからか、幼い頃には煌めいて見えたアーチ看板は随分と古ぼけて見えた。
感染者が蔓延り、商店街が丸ごと使われなくなった今では尚更だろう。
入り口の前で停車して、荷台から降りる。
鈴掛先生を先頭に、後方に車がついてくる形の隊列で商店街の中へと入っていった。
久方ぶりに訪れた、閑散とした道路にはまばらに感染者が蠢いていたが、先頭にいる先生が余裕綽々といった様子で屠っていく。
そのお弟子さんたちも相変わらず見事な手前で、連携に危なげもなかった。
後方、少し離れて徐行する車の近くで歩む俺のやることなんてほとんどないくらいだ。
やがて十字路へと差し掛かり、鈴掛先生は道のど真ん中を歩きながらも、曲がり角の先をゆっくりと確認した。
先生は手を上げて「止まれ」の合図を出すと、そのままこちらへと引き返してきた。
「……まだ気付かれてはおらんようだが、少しばかり、数が多いな。見かけぬ車が建物に突っ込んでおった。知らん間によそ者が来ていたのかもしれんな」
先生のその言葉に、ごくりと喉を鳴らす。
「……心配するな、無理はせん。今日のところは引き返して、少しばかり時間を空けてからまた来ることに……」
そう鈴掛先生が言い終わる前に、遠くの方で、ドン、という音が響いた。
今日は俺たち以外にも、他の場所から感染者退治に出ている者がいる。
おそらく、今の発砲音はそれだろう。
「む……感染者相手にはなるべく使わないよう言っていたはずだが……」
感染者は、音に引き寄せられる。
そのことをあの人から聞いていた先生は、町の皆んなにそう伝えていた。
時折行われる猟の時は使うしかないようだけど、感染者退治で銃が発砲されたのは随分と久しぶりだ。
「何か、不測の事態でも起きたか……」
渋い顔をして無線機に手を伸ばす先生がそう言った矢先。
そこから、声が聞こえてきた。
『……くそっ、くそっ!鈴掛さん!ありえねえ!や、やつら……走ってきやがった!』
「……何?」
また、遠くで何度か発砲音がして。
『とにかく撤退だ!鈴掛さんも一旦すぐに撤退しろ!』
……やつらが、走ってきた?
訳の分からない言葉に俺は頭に疑問符が浮かんだけど、先生は無線機の相手に返事をすると、顔を上げた。
そして撤退の二文字を口に出そうとした瞬間、びくりと身体を震わせて、先生は勢いよく後ろを振り向いた。
「先生……」
お弟子さんがそう声を出すのと、その動作はほぼ同時だった。
冷静に考えてみれば、この通りの先にある建物に突っ込んでいた車は、どうしてそのような状態になったのか。
"ノロマ"な感染者から車で逃げて、建物に突っ込むなんてこと、パンデミック直後ならいざ知らず、今更起こるわけがない。
先生やお弟子さんの視線の向かう先、十字路の曲がり角を見れば、そこには一体の感染者の姿があった。
じっとこちらを見るその眼差しも、ゆらゆらと揺れるその体も、何処か、いつにも増して不気味だった。
先生の後ろ姿が、普段とは違う様相を呈しているのが、俺にでも分かった。
時間にしてほんの数秒、かつてない緊張した時間が流れたのも束の間。
――ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛!!
その日、俺は初めて感染者の咆哮を聞いた。




