十五話
カエデの話からわかるのは、この3階に感じているもう一つの気配である、ゾンビの気配は、つまりはカエデの"母親であったもの"の気配なんだろう。
俺はカエデを助けると決めた。
であるならば、その危険を少しでも減らしておかなければならない。
カエデは何かを言おうと口をパクパクとしていたが上手く言葉に出来ないのか、一度大きく深呼吸をするかのように息を吐き出すと、改めて口を開いて、
「……分かりました。」
ただ一言、そう言った。
俺は床に置いてあったバールを手に取り、立ち上がる。
「あの、これ、更衣室の鍵です。」
カエデも立ち上がり、父親のものであっただろうキーケースを震える手で渡してくる。
受け取り部屋を出ようとすると、カエデも歩みを進めて来た。
「ついてくるつもりか?」
「あっ、ごめんなさい……ダメ、ですか……?」
「……いや、そうだな。見て置いた方がいいかもな。」
現実をその目で見せる。
助けると決めたのならば、むしろそうした方がいいと思った。
部屋を出て更衣室の前に置かれている家具を寄せ、二人でそのドアの前に立つ。
音で中のゾンビが反応して金属製のドアを引っ掻いている音が耳に障る。
俺は鍵を開けドアノブを回すと、そのまま体当たりするかのように勢いよくドアを開く。
勿論体当たりなどしなくとも人一人程度吹き飛ばすことなど容易なのだが、カエデの前だ、敢えてそうした。
ゾンビは部屋の壁に叩きつけられ、ドアが開いた。
しかし倒れたゾンビは俺たちを視認すると、ゆっくりと立ち上がり両手を前に力なくあげて近づいてくる。
「お母さん……」
カエデが俺の後ろで、小さく呼びかける。
目の前のゾンビは、綺麗なものだった。
カエデの話の通り、腕にしか目立った傷はなくそれさえ無ければ、一見、ただ少し顔色の悪い人にしか見えなかったかもしれない。
しかしよくよく見ればその瞳は酷く濁り、これがすでに人では無い何かになってしまっていることは明らかだった。
俺の後ろから動かずに居たカエデも、同じことを思っているのだろう。
目の前の"母親であったもの"に近付こうとはせず、ただその足をすくめるばかりだ。
「お別れは済んだな?」
俺はただ一言そうカエデに冷たく言い放つとその返事も待たずに、カエデの"母親であったもの"の頭にバールを振った。
頭蓋骨の割れる鈍い音がして、ゾンビはゆっくりと倒れていく。
「お母さん!」
カエデがそれに近づこうとするのを、俺は左手でその首根っこを捕まえて制した。
けぷ、と変な声を出してバランスを崩すカエデがその体勢を立て直すより先に、俺はそのまま右手に持ったバールをもう一度、倒れたゾンビの頭へと容赦なく振り下ろした。
酷く不快な音がして、その頭が完全に潰れた。
頭蓋骨がぐしゃぐしゃになったゾンビの亡骸を前にしばし呆然と立ち尽くすカエデだが、ややあって、俺の方を振り向いては、キッ、と鋭い瞳で睨んで来た。
「油断するな。こいつらは、倒れたからと言って死んだとは限らない。これぐらい頭を潰せば間違い無いがな。」
何もここまでしなくても、とでも言いたかったのだろう。
そのカエデの無言の抗議の視線に、俺は表情を変えずにそう返事をした。
本当は、一撃目ですでに死んでいる。
だがあえて教訓のために俺は二撃目を入れた。
これで恨まれたとしても構わない、助けると決めたのだから。
カエデは何も言わず、ただ"母親であったもの"の亡骸の側に震える足で恐る恐る近付くと、じっとそれを見つめた。
そのまま佇むカエデは何を思っているのだろうか。
カエデの激しい呼吸音だけが、静寂な部屋の中にこだまする。
これは、必要なことだ。
元が誰であろうが、ゾンビとなったものは殺さなければならない。
そしてそれが知っている者ならば尚更、だ。
家族や、恋人や、友ならば、尚更なのだ。
辛いのであれば、他の誰かがやらなければならない。
俺が、それをしただけのことだ。
しばらくして、カエデはこちらを振り返ると深く俺に頭を下げた。
「アザミさん、さっきは、ごめんなさい……お母さんのこと、ありがとうございました。」
ぽたりと、床に水滴が落ちたのが分かった。