百三十五話
「今は。そう、言いましたよね」
那須川さんの静かな問いに、再び歩き出そうとした自衛官はぴたりと足を止めた。
「ひょっとして、今外で、何か起こっているんですか」
「……那須川さん。何を言っているんですか。取り敢えず一緒に来てください、歩きながら話しますから」
「いえ、ここで仰ってくれませんか。自分の想像では、感染者に関連することなのではと思うのですが、違いますか」
那須川さんは真っ直ぐに自衛官を見て、そう言葉を投げかける。
ここまで案内してくれた自衛官と、駐屯地の案内の交代要員として来た女性の自衛官二人が目を合わせ、僅かに動揺した素振りを見せた。
唐突に話を先送りにしたこと。
それは今すぐにやらなければならないことができたということだろう。
そして、それをやるのに那須川さんも連れて行こうとしている。
また、善意から来た、少なくとも今は外には出られない、という言葉。
俺はここまでの流れで、おそらくは那須川さんと全く同じ想像をしていた。
「……感染者の群れが、現れたんじゃないですか。だから今、こうして慌てて……」
「那須川さん」
自衛官は、那須川さんの言葉を遮った。
「滅多なことを言うもんじゃ無い。みなさんが不安に思ったらどうするんですか」
ぎこちない笑みを浮かべる自衛官に対し、那須川さんは一度拳を握ると、再び口を開いた。
「自分にはわかっています。この慌てぶりは、何か起きたに決まっています。自衛隊皆でそれに対処しようとしている。そして今の世界でそれは、感染者の群れが現れたということなのだと」
「那須川さん」
「あの時と、同じだ。自分のいた、駐屯地が、墜ちた時と」
「那須川さんっ!」
那須川さんの言葉に対し、焦った様子で自衛官が彼の名前を呼び、俺やサクラ達にちらりと視線を送った。
その様子を見るに、那須川さんや俺が想像していたことはおそらくは事実なのだろう。
側から見て、自衛官のその態度は酷く立派なもので、また那須川さんの行動は決して褒められたものでは無かった。
自衛官はやっとの思いでここに避難してきた俺達を不安がらせないために、それを隠し事態の収拾に努めようとした。
反面、那須川さんは、そんな彼らこの駐屯地の自衛隊の想いを踏み躙るようなことをした。
だが、那須川さんがそんな話をここでする理由を、俺は理解出来ていた。
そして多少ながら、その気持ちも。
きっと彼は、ここに同行しているのが単なる避難民であったならば、そんな話はしていなかったはずだ。
もっと言えば、ここにいるのが俺だからこそ、そんな話をしているのだろう。
「……感染者達は、進化しています。奴らを前に、この駐屯地を、守り切る見込みはありますか」
那須川さんのその問いに、自衛官は観念したかのように大きく息を吐いた。
俺やサクラ達の様子を横目で窺い、一度口をへの字に曲げてから、静かに語り出す。
「……そんなものは、やってみないとわかりません。少なくとも、これまではやって来れていた。なら、あとはもうやるだけです」
静かに、お互い真っ直ぐに視線を交える二人の自衛官。
その視線を最初に逸らしたのは、那須川さんの方だった。
「柳木、さん」
「……なんだ?」
その視線の行き先は、俺。
まるで今にも泣きだしそうとも思える瞳を向けて、那須川さんは震えた声で俺へと呼びかける。
「……柳木さんなら、この状況を、どうにかできたり、しますか」
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「……」
何を言っている?、ととぼけることもできただろう。
他言はするなと約束したはずだが、と責めることもできただろう。
だがそれらの言葉は出て来なかった。
彼の気持ちも多少なりとも理解はできていたからだ。
那須川さんは、駐屯地が墜ち、仲間も守ってきた避難民も死ぬという経験を経てここまでたどり着いた。
しかしまたすぐに同じ目に遭うかもしれない出来事に直面している。
本当に、安全に、確実に、それを回避出来る方法がすぐ近くにあったのなら?
それに頼りたくなるのは人間としてごく当然のことだろう。
それが自分の死を回避したいからこそのものなのであれば、俺はここまで揺れはしなかっただろう。
だが彼は、自分のためでは無く他の者のために、そう俺へと呼びかけている。
それは、これまで彼と過ごした数日間で、嫌というほど分かっていた。
「あなたの力があれば、きっと、みんなを守れるはずですよね……」
「那須川さん、何を言って……」
「柳木さん。そんな力があるのなら、英雄にだって、救世主にだってなれる!」
そばにいた自衛官が訳のわからぬ顔をして那須川さんに声をかけるも、彼はその呼びかけを無視して俺へとそう言った。
きっとその言葉は、俺がこの力を見せ、マンションへと移動した時に彼が言いかけた言葉の一つでもあったのだろう。
彼は自衛隊の一人として誇りを持って、知らぬ誰かを守るために、奮闘してきた。
パンデミックが起こる前から。
そして、パンデミックが起きた後も。
これまでの彼との触れ合いから、彼がそのような考えに至るのはごく自然のことのように思う。
もしも今、俺の持つ力が彼にあったのならば、彼は知らぬ人のために存分にそれを振るったのかもしれない。
だが。
「……那須川さんは、"そんなもの"になりたいのか?」
「柳木さん……?」
「……俺はな。英雄やら救世主やら、そんなものに興味なんざこれっぽっちもないんだよ。そんなものは、酷くくだらない、大したことのない、価値の無いものだって、俺にはもう分かっているんだ」
……異世界では、魔王討伐の使命を与えられた。
勇者パーティーという称号は、それは周りの皆からは羨望の眼差しで見られたものだ。
だがその実態は体のいい使いパシリみたいなもんだ。
無理難題を押し付けられ、苦しみながら解決に奔走するその様はなんと無様なことか。
英雄や救世主の正体なんて、実際はそんなもの。
子供の頃には分からなかった、一見華やかに見えるアメリカンヒーローの、抱える孤独や葛藤。
そんな感情も、今の俺なら多少は理解出来るだろうさ。
それに似た経験も、異世界で嫌というほどしてきたんだからな。
「俺は、俺の守りたいものを守れればそれでいい。知らないやつを助けるために奔走するなんてのは御免だね」
「柳木、さん」
俺の言葉をどう受け取ったのだろう。
那須川さんは哀しげな瞳で俺を見ると、唇を噛んだ。
じっと俺に向けられた視線は、気付けば、彼のものだけではなくなっていた。
そばにいた自衛官二人の訝しげな視線。
サクラや少女達の視線。
そして、威圧スキルの残滓で俺を怖がっていたのはどこへ行ったのやら、ナノハもまた俺をじっと見つめていた。
ちらりと視線を合わせても、ナノハは目を逸らさなかった。
「……まあ、だが、そうだな。このままだと、せっかく助けた那須川さんや、ともすればナノハやサクラ達を死なせることになるかもしれない。分かったよ。少しくらいは、手を貸そう」
そんな彼女の、期待をはらんだかのような眼差しに応えるように、俺は頭をかくと、一つ大きく息を吐いてそう言った。
これだけ集まった自衛隊がそうそう全滅することなどないとは思うが、被害無しとはいかないだろう。
最悪、他の駐屯地のように突破される可能性だってゼロでは無い。
「那須川さん、一つだけ言っておく。こいつは決して、ここにいる自衛隊や避難民を助けるためにやるんじゃない。これは俺の願いのために、自衛隊に作る貸しだ」
ならば、助けた那須川さんやナノハ、サクラ達に対し多少の責任を負うのと同時に、ここで自衛隊に恩を売っておくのも悪くは無いだろう。




