十二話 不二楓5
それから、数日が経ちました。
ホームセンターに立てこもり一晩経った後も、やはり電話回線はパンクしており、救助を呼ぼうにも呼べない状況でした。
SNSなどで書き込みをした所で、そこら中に同様のものがあり、おそらくは期待出来ないだろうなと諦観のようなものを覚えました。
テレビでは、街中に溢れた自我を失い人を襲う人達のことを、感染者と呼んでいました。
その凶暴性と噛まれると感染することから、狂犬病の一種であるとか。
感染者に噛まれた人は隔離してくださいだとか、危険なので外出はしないでくださいだとか。
感染者に人権はあるのかないのかだとか。
それはもう、酷くどうでもいい内容のものがテレビでは流れていました。
二日も経つと、局自体がもうダメになっているのか、映らないチャンネルがどんどんと増えていきました。
そして、救助を呼ぼうと警察に電話をかけてもそもそも電話自体が繋がらないという状況になっていきました。
やがて、電気も使えなくなり、水も使えなくなり。
幸いと言えばいいのかなんなのか、この三階にはトイレがあり、売り物の家具なんかを使って水が止まる前に取り敢えずの水を確保していたので、その問題はクリア出来ていました。
夜中目覚めた私は、手元にあった懐中電灯にあまり明るくならないようにタオルをかぶせると、パチリとスイッチを入れました。
隣で眠る父を起こさないように、ぼうっと光る明かりを頼りに静かに部屋を出ます。
キィ、と小さくドアが開く音が酷く響いた気がして私は後ろを振り返りますが、毛布に包まれた父は軽く身じろぎをしただけでした。
そっとドアを閉めて、私は女子更衣室の前へと歩みを進めました。
男子更衣室と違い、ドアの前には重い家具がそれを塞ぐように置かれています。
ゆっくりとそこに私は歩みを進めると、小さく呼びかけます。
「……お母さん?」
しん、と静まりかえる空気の中、ややあって、ずり、ずり、と何かを引きずるような音が部屋の中から聞こえたかと思えば、私の呼びかけに対する答えは言葉にならないうめき声とバンバンと激しくドアを叩く音でした。
と、突然ぐい、と手を引かれたかと思うと、私は口を塞がれ引っ張られて、その場からスタッフルームへと強引に移動させられました。
「楓っ!」
私を引っ張ってきた父が、小声で叫びます。
「楓、まだわからないのか!かあさんは……」
続く言葉を聞きたくなくて、私は父を振り切って、部屋を出ようとします。
が、父に押さえつけられました。
「楓っ!落ち着きなさい!」
そう叱る父の顔は怖くて、でも悲しそうで、怒っているようなのに、必死で涙をこらえているかのような、そんななんとも言えない表情で。
「……いい加減、分かってくれ。テレビでもネットでも、見ただろう、"やつら"になってしまった人達を」
私は、あの日から毎日ドア越しに"母であったもの"に声をかけていました。
「受け入れるんだ、楓。かあさんは、死んだんだ。あの中にいるのは、もう別の何かなんだ」
なんで父はそんなことを言えるんだろう。
なんでそんなに簡単に割り切れてしまうんだろう。
そう思う私を、父はぎゅうと抱きしめました。
いいえ、私も本当は分かってはいるんです。
"母であったもの"。
あの部屋にいるはずの母を、そう表してしまっている時点で、私の中でもある種事実としてそれを認識しては居たのです。
ただそれでも、動いているのだから、ひょっとしたらまだ生きているのではないのかと、そう思わずには居られなかったのです。
あの日から、たくさん泣いて、泣いて泣いて、もう涙が出ないくらいに泣いたのに、それでもまだ不思議と涙は出てきました。
ぽたりと上から、私の頬に涙が落ちました。
父も泣いているのに気づいて、私も父を強く抱きしめました。
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それから一週間程経った朝のことでした。
目が覚めると、父はすでに起きていて何か準備をしていました。
「お父さん?」
「楓。良かった、丁度起こそうと思っていた所だ」
そう言う父の顔は何か決意じみたものを感じる、とても真剣な表情をしていました。
「これから下に行って、食料を取ってくる」
「そんな!危ないよ!」
起きたばかりでまだぼやけた頭が、一瞬で覚醒しました。
父は手袋をはめて、ここに来た時に武器として置いてあった金属製のテーブルの脚を外したものを手に取ると、ぎゅっと感触を確かめるように握りながら答えました。
「でももう食料がない、水はなんとかなってはいるが……」
確かに、節約してはいましたが、もう食べるものは殆ど無くなっていました。
なにせ防災バッグに入っていたのは三人三日分の食料で、すでにここに避難してから十日程経っていました。
「それに、まだ動ける体力のあるうちにやらないと」
父の言うことはもっともなのですが、それでも危険なものは危険です。
「でも、その前に救助が来るかもしれないし……」
「そうかも知れない。けど来なかったらもう餓死するしか無くなってしまう」
私はなんとか父を引き止めようとしますが、父は私の肩に手を置いて言いました。
「大丈夫だ、危なそうなら何もしないで帰ってくる」
私の瞳をまっすぐに見つめて言う父の意思は固いようでした。
私と父はスタッフルームを出て、非常階段の防火扉の前に移動しました。
そこに置いてあった家具を寄せ終えた父の腕を、私はぎゅっと掴みます。
「お父さん、どうしても行かなきゃダメなの?」
父は、それに答えるかのように、母が感染者となったあの日の時と同じように、私を抱きしめて頭を撫でました。
「楓、いい子だから分かってくれ。これは、どうしても必要なことなんだよ。お父さんは、大丈夫だから」
その手がわずかに震えていることに気付いて、私は父に抗議をします。
「お父さんも怖いんじゃん……こんな危ないこと、やめよう?」
「"やつら"なんて怖くないさ……」
父が続く言葉を飲み込んだ気がして、私は父の顔を見上げます。
すると父はにっこりと微笑むと、
「さて、行ってくる。覗いて無理そうならすぐ戻ってくるから、その時は怒らないでくれよ」
そう言って、もう一度私を強く抱きしめてから、静かに防火扉から出て行きました。
私はそのままそこに膝を抱えて座り、耳を澄ませて父の帰りを待ちました。
下で、少し物音がしたような気がしました。
父は、帰って来ませんでした。