百二十三話
「隣、座っても良いですか?」
俺が渡したまっさらに新しい服を着て、彼女は無警戒に俺へと近づくとそう人懐こい笑みを浮かべた。
そして俺が返事をするより先に、壁を背にあぐらをかく俺の隣にするりと腰掛けた。
「……何の用だ?」
随分と、距離が近い。
そのことに少々居心地の悪さを感じて、もう一度同じ質問を繰り返し彼女から距離を取るように腕を組んだ。
「お礼、したいなと、思って……」
「あぁ。なに、どういたしまして」
俺がそうすると、また少しその距離を詰めてくる彼女に気圧され、そっけない返事をしてしまう。
そんな俺の横顔を彼女はしばらくじっと見つめてきて、さすがに気まずさを感じ始めた頃、彼女はふいに口を開いた。
「……おにーさんが、全部やったんですよね?」
「おに……その前に、俺はもうそんな歳じゃない」
「そうなんですか?そうは、見えませんけど。おにーさんって呼ばれたら、嫌ですか?」
「……柳木薊だ。別に、好きに呼べば良い」
それは世辞だろうが、分かっていても別に悪い気はしない。
それにその呼び方も、"アザミっち"なんてものよりかはだいぶとマシだろう。
「苗字は、那須川さんから伺ってましたけど……かっこいいお名前なんですね」
続け様にそうおべっかを並べる彼女に苦笑して、小さく鼻を鳴らす。
「柊さくらです」
「柊さん、ね」
「さくらでいいですよ、呼び捨てで」
サクラはそう言うと、にこりと一度笑顔を浮かべる。
警戒心がなくなって緊張が解けたのか、昼間の様子とはがらりと態度の変わったそれは、彼女の本来の姿なのだろうか。
「で、全部やったか、だったな。確かに、あいつらは俺が全員殺した。那須川さんは言ってなかったのか?」
「なんだか、はぐらかされてしまって。やっぱり、そうだったんですね」
那須川さんはどういうつもりでそれをはぐらかしたのだろうか。
悪人とはいえ感染者でもない生きている人間を俺が皆殺しにした、ということを語るのに迷いが生じたのか。
それともただ単に、威圧スキルの残滓で俺について語るのを躊躇でもしたのか。
彼のこれまでの経験からすれば前者の意味合いが強そうな気もするが、ともあれサクラは俺がそう返事をしても、その瞳の色を変えずにさらにぐいぐいとその距離を縮めてきていた。
「このお洋服を一人で取ってきてくれたのもそうですし……とても、強いんですね」
そう言うと、サクラはあぐらをかく俺の太ももの上に、手を乗せる。
くすぐるように少しだけ撫でるその動きはどう見ても、ただそこに何となく手を置いた、なんていうものではないだろう。
昼間食事を運ぶ前にトラウマからか身体を硬直させ、またそれが勘違いと気づき頬を染めていたあの様子とは似ても似つかぬその態度に、違和感を覚える。
もうお互いの肩が密着するほど距離を縮めたサクラの方を向けば、震える眼差しと、目が合った。
少しの時間視線を絡ませると、彼女はそのまま身を乗り出し顔を俺へと近づけてきて、最後には目を閉じてその唇を……
「……何のつもりだ?」
すんでのところで唇と唇の間に指を差し込み、"その行為"を回避する。
パチリと目を開けたサクラの顔をそのまま離れさせると、彼女は上目遣いで口を開く。
「……ごめんなさい、嫌、でした?」
「……」
「あ、昼間、吐いちゃいましたもんね。えっと、ちゃんとさっき歯磨きもしてきましたよ?」
あっけらかんとした様子の彼女の態度に、一度大きくため息をついた。
「そういうことじゃなくてだな……」
「じゃあ私、タイプじゃなかったですか?」
「タイプも何もない……まあ別に、普通に可愛いんじゃないか」
「それなら良かったです」
客観的に見て、顔立ちは整っているし、スタイルもいいだろう。
さっきから無駄に二の腕へと押しつけられている胸も、食事が満足に与えられず顔色が良くない割には、何故だかそこにだけは栄養がいっていたかのようだ。
サクラは、お礼がしたくて、と最初に言っていた。
その言葉を素直に受け取るならば、食事と服と、そして何より心無い男共から助けられた礼、ということだろう。
だがそれで"こんな雰囲気"になるのは本末転倒もいいところだろう。
それではその身体の差し出し先が変わっただけのこと。
それとも、白馬の王子様に助けられ恋をして、命の危険が常にある非日常故に、そういう衝動が高まっているからこうなっている、とでも言うつもりなのか。
……俺が白馬の王子様とは、笑えない冗談だ。
再びにこりと笑顔を浮かべるサクラを見て、相も変わらず太腿に置かれていたその手を取った。
「……震えが、隠しきれていないな」
俺の言葉に、びくりとサクラの体が強張った。
先程から、僅かに感じていたその震え。
それの意味するところは、この一連の行為は、彼女が心からそれを望んで行っているものではないということ。
その真意を聞き出そうと、そんなサクラの瞳をじっと見つめる。
「もう一度だけ聞く。何のつもりだ?」
別に、サクラから敵意などは感じられない。
しかし彼女は、ただの礼だとか恋をしたとか、そんな馬鹿げたことでこのような行動に及んでいるわけでもないと思う。
そしてそうであるならば、このように震えながらも明るく振る舞うサクラは、その内面はとても冷静で、ある意味では非常に賢い判断をしているということなのではないだろうか。
だからこそ俺はその言葉遣いとは裏腹に、語調も声色も、なるべく優しくそう問いかけた。
一度彼女は目を逸らすと、そこで観念したのか、ゆっくりと口を開く。
「……助けて、欲しいんです」
「……」
「おにーさんは、きっと感染者なんて、どうにでもなるんですよね?だから……私のことは好きにして良いので、私達を助けて欲しいんです」
こちらを見上げ、懇願する瞳を向けながら吐き出されたその言葉に、一つ息を吐く。
大方、そんなことだろうと思った。
そしてそれは、やはり彼女にはとても現実が見えているという証でもあった。
俺は今日、結果的に彼女らをあの青年たちから救い出した。
好き勝手に汚される地獄のような毎日から、救い出した。
だがそれは同時に、彼女らにとってみれば、単にまた別の新しい地獄が始まったというだけの話。
ある意味身体を差し出すことで日々の生きる権利を得ていた彼女達は、この日を境に自分達だけの力で生きていかねばならない。
年端も行かない少女達と、せいぜいが20歳過ぎのサクラ。
彼女らがこの変わってしまった世界を生きることなど、とてもじゃないが不可能だろう。
そう、俺や那須川さんの力を、借りない限りは。
「出来れば、あの子達には手を出さないで、私だけで満足して欲しいです。私、頑張りますから……」
それは昔カエデが俺に言ったものと似たようなことだ。
まあ、それよりも幾分か……いや随分と直接的ではあるが。
サクラが言っているのは、自身を好きにして良い代わりに、自分を含む彼女らを守って、世話もしてくれないか、とそういうこと。
だがそれでは先も考えたように、それを許諾するのならば、俺は俺が殺したやつらと何も変わらないではないか。
あくまで無表情を装っていた俺に対し好き勝手に言葉を投げ、またぐいぐいとその身を寄せるサクラの必死な様子に、ついには一つ、鼻を鳴らす。
「あの……?」
「あぁ、いや。随分と聡明なことだと思ってな」
そう、軽い皮肉を言ってやる。
男だからという理由だけでやつらと同じように俺のことを考えたサクラに、少々腹がたったからだ。
「だが、気に入った」
「……えっと、つまり……?」
「何、助けてしまった以上、取り敢えずは助けるさ。"こんなこと"をしなくてもな」
皮肉が通じなかったのか、ただただ疑問符を浮かべたような顔をして、首を傾げるサクラにそう言葉を放つ。
彼女は目を一度大きく見開いて、そしてその瞳を潤ませた。
「まあ、悪いようにはしない。あの子らにもそう伝えておくんだな」
言って、彼女の肩を優しく押して一度その身体を離れさせると、傍に置いてあったLEDランタンのツマミを僅かに捻る。
気付けば外は太陽が沈み切っていて、暗闇に包まれていた部屋にランタンの仄かな灯が灯った。
「ありがとうございます……」
この部屋を訪れたときの様子とは一転して、しおらしく目を伏せるサクラに目をやる。
サクラは、このどうしようもない現実が確かに見えていて、それをどうにか打破しようと動いた。
そして何より、彼女自身を犠牲にして、おそらくは特に何の関係性もないであろう他の少女達を救おうとした。
その心意気は、見上げたものだと思う。
と、顔を上げたサクラと目が合った。
「おにーさん……」
「……なんだ?」
いまいち慣れないその呼び方に苦笑しながら返事をして、気付く。
サクラの潤んでいた瞳が、いつの間にか熱を帯びていることに。
「やっぱり、お礼を……」
「おい何を、やめっ……」
何故だかサクラは、つい先程と同じように俺に顔を近づけてくるのだった。




