百四話
「……だがな、カエデ。」
「っ……!」
立ち上がった俺を見上げる三人は、その後の光景に言葉を失ったようだった。
俺が"左手に魔力を込めた"結果起こったその現象に。
俺はゆっくりと、"左手の親指に嵌めた指輪"の側に空いた穴、アイテムボックスに右手を突っ込む。
右手の先が、その黒い次元の穴へと吸い込まれ、空間から消失する。
そんなまるで手品のような光景を呆然とした様子で見つめる三人を前にして、俺はその中から一つの小瓶を取り出した。
「なんでも俺の言うことを聞くんだったな。その前に、これを飲んで欲しい。」
それは、異世界から持ってきていたもの。
神樹から採れる実で作られたエリクシールと呼ばれるポーションだ。
要は万能薬なのだが非常に希少で、俺達勇者パーティーでもこれ一つしか所有していなかった。
俺以外のメンバーはそれぞれ回復魔法が使え、イーリスやロベリアは状態異常治癒も行える。
そして俺には"状態異常無効"のスキルがあるから、メンバーに何かあった際に治癒を使えるイーリスやロベリアを瞬時に回復する為にと、魔王戦を前に無理をして一つだけ購入していたものだ。
結局、使わずじまいだったがな。
「せ、せんぱい……?」
俺はコルクで栓をしていたその小瓶を手に取りながら、カエデの前に屈み込む。
何が起こったのかと、そばでそれを見ていたユキと子供は訳が分からぬというように目を丸くしていた。
しかし当のカエデはといえば、不思議とその顔を少し綻ばせていて、きゅっと唇を結んだ。
「……これを、飲めばいいんですか?」
「あぁ。」
これによって俺はカエデにかかった呪いを解くつもりではあるが、しかし向こうの世界のものが、魔力を持たないこちらの人間にどのような影響を与えるのかは実際のところ分からない。
ロベリアは昔、解呪魔法はその人の魔力を一時的に増幅させて呪いに抵抗するものもあると言っていたような気がする。
このエリクシールもその原理と同じであるならば、これを飲ませたところで呪いは解けないかもしれないし、そもそも異世界のものを入れることで単に苦しみを生むだけかもしれない。
腕の痛みと、俺の手品めいた行為を前にしてか、震える手でそれを受け取ろうとするカエデを制して、俺はコルクを抜く。
「飲ませてやる。飲んだ事はないが、話によるととにかく不味いらしい……飲めるか?」
俺のその問いに、カエデは不安な表情を見せず、何も聞かずこくりと静かに頷いた。
俺の言うことならばなんでも聞き入れると言っていたからか、はたまた死んだことにしてくれと織田さんに頼んでいたのにも関わらず、こうしてまた目の前に現れた俺をそれでもなお信頼しているからか。
「んっ……」
カエデの小さな口元に小瓶を持っていき、ゆっくりと傾ける。
中の液体が口に入った瞬間その幼さの残る顔が一瞬歪むが、しかしカエデはすぐにそれを飲み込む。
一滴たりともこぼさぬように慎重に、吸うようにそれを口内に入れると、最後に下を向いてごくりと喉を鳴らした。
「……とっても、苦かったです。これは、何だったんですか?」
カエデは顔を上げ、少しはにかみながら問いかけてくる。
得体の知れないものを飲んでからそう聞いてくるのは、やはり俺に未だ全幅の信頼を寄せているということなのだろう。
「これはな……」
「っ……ふうっ……!」
それをどう説明しようかと少々頭をひねったその時、カエデが急に眉間に皺を寄せて息を吐く。
カエデが噛まれた腕をもう片方の手で押さえようとするのを、しかし俺は手首を取り遮って、その変化を見る。
そこにあった傷口がじくじくと泡立つように、垂れた血液を残して徐々に塞がっていく。
その様子からユキも子供も目を離せないでいるようだった。
そして当のカエデ本人は、本来ありえない現象が自分の体に起こっているのを、それこそ怯えたような表情でそれを見ていた。
「はっ……はっ……」
急速な細胞の再構成で体力を使っているのか、その怯えからなのか、はたまた異世界のものを体内に入れたからなのか、カエデは荒い息を吐きながらそれを見つめる。
やがて僅かな噛み跡を残して、カエデの腕の傷は完全に塞がった。
「あ、アザミ、さん……」
「……この薬はな。ゾンビ化しなくて済む、かもしれないものだ。」
あくまで今の所は可能性の話。
その傷には効果があったようだが、果たして体内に巣食う呪いが解けたか迄は俺には判断出来ない。
「取り敢えず傷は治ったようだが、正直これでゾンビ化を防げたかまでは保証はできん。そしてどういう結果になるかもな。俺は、カエデのその気持ちも覚悟も、理解したつもりだ。だがこれを飲んだ以上は……俺はカエデが人のままでいる間は、殺さない。」
その宣言は、ある意味ではカエデの覚悟と願いを踏みにじる行為かも知れない。
「しかしもしこれで治らず、カエデがゾンビになったのなら……その時は俺が必ず殺すと約束する。」
経過を見てカエデが人で無くなったのならその時は改めて殺すという、カエデの気持ちをまるで無視した提案。
それは言い換えれば、ゾンビにはなりたくない、死ぬならば人間のままでと願ったカエデに対して、ゾンビになるまで待つという宣告だった。
カエデはそれを聞いて、傷の塞がった腕をじぃと見ると、俺を見上げた。
俺のその心配をよそに、カエデの瞳は先程までの絶望の色に染まった暗い瞳をしてはいなかった。
先のことを完全に諦めていたところから治る可能性を示されたからか、奇跡とも言える咬み傷の再生を目にしたからか、それは分からないが、そこには希望の光が灯っているような気がした。
「それで、いいか?」
「……はい。」
俺の言葉に、何故だかカエデはその顔に満面の笑みを浮かべた。




