08.初期中世──暗黒時代の犬たち
ゲルマン人やケルト人も他の地域同様昔から狩猟と牧羊のために犬を飼っていた。そしてローマの影響を受けるまで時々食用にされていた。
猟犬はケルトのエリート階級にとって馬と同様に象徴的なもので、スペインで出土した猪を狩猟をする銅像には犬が付き添っていたし、出土貨幣の中にも恐らく犬っぽいものを描くものがあった。
フランスの伝統的な犬としてサン・ユベール犬がいる。これは7世紀に狩猟好きのリエージュ司教サン・ユベールが改良して作った犬種だという。サン・ユベールの聖人伝を見ると、元はアウストラシアの宮廷に居た際に狩猟を楽しみ、牡鹿の天啓を受けてから宗教的生活に入ってアルデンヌの森で布教に努めていた。狂犬病の治癒について奇跡を起こしたと言われる。
犬の事典を見ると9世紀に設立したサン・ユベール修道院で繁殖させていた犬のことのようである。当時すでにサンユベールが狩猟の聖人として崇められていたことから猟犬が育てられていた。19世紀に整理されたサンユベール修道院年代記を確認すると、確かに献金への対価として犬と鷹を毎年フランス王に贈る慣習は少なくとも15世紀にはあったというが、初期中世まで遡るのは困難だから何かしら雑種の猟犬がいたのだろう。
その他、ボースロンは古代から牧羊犬を務めていて、ピカルディシェパードは9世紀に入植し、フレンチマスティフは他のマスティフのようにナポリタンマスティフから派生したようだ。
フランク族やゴート族が西ローマ帝国の版図を引き継ぐと、彼らの民俗に合わせた法律が編纂される。「犬」に対する条項についてはフランク族のサリカ法には犬の盗難に関する法律、ゴート族のために作られたエウリック法典には犬が誰かを傷つけた際の法律が設けられている。
サリカ法では盗難された犬の価値をリーダー格の狩猟犬、他の狩猟犬及びサルーキ、番犬、牧羊犬で分類して罰金を定めている。
狩猟は馬と鷹、そして多数の犬を使って行われた。犬への合図には角笛が用いられ、武器には狩猟用の槍と罠が使われた。
牧羊犬は一番価値が低かった。羊の食用比率の低さや羊毛取引も市場の未熟さのために自給自足に留まったことから、羊の飼育数は少なく牧羊犬の価値も比較的低かった。テキスト上の参照もそれを反映して殆ど存在しない。11世紀のフランドルには羊骨を中心に出土した村落遺構で犬の埋葬墓があり、牧羊犬自体が存在していたことは確認できる。
狩猟の他にも犬の娯楽はあった。トゥールのグレゴリーの歴史には、フランクのキルデリク王はメスMetzの町で犬の集団が動物を囲うゲームを鑑賞したとある。メスの町にはローマ時代の大規模な円形劇場があるので、ここで行われていたのだろう。
アインハルトによるシャルルマーニュの生涯によれば彼も狩猟を好んでいた。
カロリング朝の「宮廷の秩序」によれば当時の宮廷に多くの役人の中に鷹匠や猟師Venatoresがいて、その下に食事係や会計などの事務職と共にbersarii(森林での狩猟)、veltrarii(犬での狩猟)、beverarii(水場での狩猟)といった実務を担当する狩猟官が置かれていた。鷹匠と四人の猟師(※つまり合わせて5人)の合議により人事や犬や鳥の管理計画、狩猟の計画を決定したという。
少なくともフランク王国では8世紀の教会会議において聖職者は犬で狩猟したり鷹や隼を飼うことを禁じられた。また狩猟の観客となることも薦められなかった。それを反映してか、ダゴベルト1世の伝記をはじめ狩猟の獲物とされて犬に追われる鹿や猪が聖人に匿われる説話は幾つもある。
中世イングランドの犬にはグレイハウンド、まだ短毛だったコリー、イングリッシュマスティフがいる。またウェールズの犬と言えばコーギーだが、9世紀頃からこうした小型犬が飼われていた証拠があり、北欧伝統のスピッツ犬種が伝わったものとされる。狩猟犬としてはグレイハウンド以外にもコヴァートハウンドがいた。
イングランドの犬については先ずローマ時代にストラボがイングランドの犬に触れている。ブリトン人が戦争に使っていた犬であり優れた犬と評判で、大陸に輸出されていたようである。
狩猟の際に彼らの武器は投げ槍や網の罠で、狙うのは野兎や鹿や猪だった。初期中世のイングランドには熊もいたが7世紀頃にはほぼ絶滅していて狩りようがなかった。またブリトン人は食用として兎(※恐らくアナウサギ)を狙うのを禁じていたとユリウス・カエサルは記録する。
アッサーのアルフレッド大王伝によれば、彼はあらゆる狩猟を楽しんでいたようである。イングランド王たちの功績によればアゼルスタン王やエドワード懺悔王も狩猟を好んでいた。またイングランド司教たちの功績においてカンタベリの僧がドッグレースを楽しんだと記されている。犬が走る理由を考えると、純粋な追いかけっこでは無いだろう。
有名なサットン・フー舟墓には犬用のリードが確認されていて、犬のものと推定される骨もある。一方、5世紀のチェスターフォードの共同墓地には2匹の犬の火葬墓があり、またカンタベリでは家族墓の中に犬の骨も発見された。特別な地位にいない人間も犬を飼うようになったと言える。
ウェールズにはルウェリン王の犬ガレットの伝承がある。猟犬ガレットは赤子を見守る役目を任され、そして赤子を食べたと疑われた。この説話の類型は各地にあるものだが、物語はローカライズされることで現地の慣習や常識を反映する。
犬が人肉を食う様は、ローマ以来路上に捨てられた有力者のなれの果てが食われてたり、初期キリスト教時代の殉教者たちが食われているのでこの頃でもまだ珍しくない。
アイルランドの犬にはウルフハウンド、アイリッシュコリーがいる。アイルランド神話の犬はいずれも前者だろう。
アイルランドではブレホン法により犬の所有は貴族に限られていた。飼い犬が誰かを噛んだときには弁償しなければならなかった。
アルスター年代記には、戦争に敗れて所有していた猟犬を奪われたことを嘆く詩が引用されている。ケルト時代と変わらずこの地の犬はエリート階級のステータスだったようである。
当時の犬は多くの場合、屋外の犬小屋で暮らした。食事は人の残り物を投げられたか伝統的な大麦のパンだった。例えばアイルランドの聖女ブリジッドはその伝記においてベーコンを余所の犬に放り投げている。
またビザンツ帝国で10世紀に整理された農書ゲオポニカでは、ローマ時代の農業論で参照された部分の他に、フロントという名の人物のテキストで犬のことに触れ、バターを付けたパンを薦めている。
古代のケルトには猫を飼う文化があった。ブリテン島の鉄器時代の史跡デーンベリー・ヒルフォートには、猫の埋葬墓が発見されているし、またウェールズや南西イングランドでは猫の顔を模る装飾品も見つかっている。その他、フランスやドイツでもラ・テーヌ期の猫の骨格が発見されている。
この頃の猫はペットというより宗教的な象徴として埋葬されたかもしれない。ケルトの神話物語群には猫の目を持つ門番が登場する。
ビザンツ帝国では少なくとも街中に猫が居たようである。
資料としては8世紀の証聖者テオファネスの年代記には猫が鼠を襲って返り討ちに遭う描写があり、6世紀の詩人アガティアスは飼い鳥を猫に殺された恨み節を書いている。また農書ゲオポニカでも猫は鶏を襲う害獣とされている。
このようにテキストではいずれも身近にいるような存在であり且つ好意的な扱いはされていない。しかしコンスタンティノープルのイェルカプ遺跡には猫の埋葬墓群が発見されている。犬など他の家畜の出土数と比較すると相対的にかなり少ないが共存自体はしていたことは分かる。またアナトリア北部のBalatlar教会の発掘レポートを読むと、ビザンツ帝国に属していた6-7世紀に猫がペットとして飼われていたかもしれないとある。共に埋葬されていたイエスズメやネズミの死骸は、テキスト上の猫の食性を裏付けるものだろう。
一方で、ヨーロッパ西部における猫のテキストは9世紀を過ぎてからである。前述のとおり猫は生息していたがその存在を無視される程度に生息数が少なかったし、居ても飼われることはなく人間の住む地域の近くで野鳥や齧歯類を捕食していた。
中世ヨーロッパの大部分で猫が飼われるようになるのは早くとも9世紀を過ぎてからである。
離島ライヒエナウの修道院で書かれた猫の詩パンガー・バンは9世紀のもので、アイルランドから移ってきた僧侶によるものだという。この詩では明確な好意が著者の飼っている白猫に向けられている。
また10世紀に入るとアイルランドでは、聖マリングや聖サムソン・オブ・ドルの聖人伝説、そしてマイルドゥーンの物語に猫が登場するほか、ボイス修道院の例のようにハイクロスの意匠にもされるようになる。
マイルドゥーン物語の「子猫の宮廷」には神の化身のような猫が現れる。その猫は人間を塵にするだけの力があるものの、無意味に柱の上を飛び跳ねたり、人間に興味ないそぶりを見せたり、所有物に執着して人に飛び掛かったりと猫らしさがあった。
とはいえ聖人伝説の方はもう少し上代に書かれた物語の可能性もある。語源集サナス・ホルミクの注釈によれば猫は元々アイルランドにいたのではなく、海から船でこの地に持ち込まれたようである。
10世紀のウェールズではハウエル・ザー王が猫を飼っていたようだ。穀物倉庫の保全を目的としたものではあるが猫の商取引も行われており、飼い猫を傷つけた際の法令も定められていて、個人の財産として認知されていた。