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07.唐代の犬猫─宮中に猫有り、町中に犬有り─

 猫が中国の史書にまともに登場するようになるのは唐代からである。

 全唐文767巻の「本猫説」では、農村の家に住み着いて穀物を害する小さい兎即ちネズミを追い出すために、農民たちが野狸の子供を拾ってきて、狸の子が成長してネズミを襲うようになった。人に慣れたことから猫と呼ぶようになったが、その猫の子供はネズミを襲わないので新しく子狸を探したという。

 猫が農地でネズミを狩っていたとする古典を元に組み上げた飼い猫の起源の仮説だろうが、そもそもネズミが兎と異なることは遥か昔から知られている。


 唐書によれば、則天武后が宮中に猫を入れることを禁じたという。また笑中有刀の人物である李義府が、柔らかいが害を為すものとして李猫と呼ばれていたという話がある。同様に猫がネズミを捕まえない上に調教出来なくて困惑していることを崔祐甫が論じている文(409巻)や、猫は家畜ではあるが仁義がないと断言する韓愈の文(559巻)が全唐文にある。他にも玄怪録や河東記に、南方の俗説ではよその家の猫が我が家の中で子供を産むとその家には不幸が訪れたとある。

 一方で、酉陽雜俎には猫が耳の後ろを洗うようにすると客が来るという俗説があったこと、また銭があれば蝶のように飛ぶ金の鎖を着けた猫がいて士人が往々にして見に来たという話がある。他にも新唐書の鼠妖志などを見るに、猫とネズミが同じ乳で育ったという吉祥論が創られていた。

 猫の良し悪しや扱いに関してはまだ決着していなかったようだ。


 唐書には、高昌国の王子である文泰が「猫は堂において遊び、ネズミは穴で安んじ、各々その適所を得てあに生きざるや」と言った話がある。堂は殿堂で、長安志によれば当時は天子が政務をする明堂や官僚が議政をする東西朝堂などがあった。

 全唐文682巻「譴猫説」には、猫が堂の室に敷かれた布団で寝て、人に食事を分け与えられていたとある。他にも千金翼方では、犬や女性だけでなく猫にも薬の調合を見られないように、と注意している。

 則天武后の命令に関わらず、あるいは彼女の没後の政令撤回後、猫は宮殿や家屋に住み着いていたのだろう。

 しかし当時の猫の絵画は今のところ確認できないし、その他考古学的な証拠も殆どない。少なくとも他の家畜と違って猫は重要なポジションに無かった。



 南北朝の北朝では、虞弘墓や安伽墓といったソグド系貴族墓壁に犬が描かれていた。彼らの墓壁画の中には火を祀る祭壇を描いた壁画があることから本来はゾロアスター教徒だったとされる。

 ここに描かれた垂れ耳気味の犬は狩猟の場に限らず、宴会や旅行の場面の中で御主人の乗る馬に寄り添っていた。ただし虞弘墓に描かれた犬の数は非常に多い(11匹!)ので、墓主の個人的な思い入れもあるかも知れない。

 波斯犬すなわちペルシャのサルーキについての記述は北斉書の南陽王綽伝にある。南陽王の高綽はサルーキに歯向かう者を襲わせていたという。しかしそういった訓練を犬にしていたわけではなく、狩猟の獲物に見せかけさせていた。

 新旧唐書や通典においてペルシャの犬は優れていると記される。とはいえ犬の性質は飼い主次第で、唐代伝奇の崑崙奴には獰猛な犬を飼う人の話があり、また一方で主人が飼い犬に助けられる説話は広異記や原化記にあるし、臨江の大鹿の説話には躾けを受けた犬が描写されていて、続怪録集や冥報記などには人語を喋る犬まで登場する。

 犬が吠えることは恐ろしいことだったが、野犬が吠えるというより家庭の番犬が何某かの脅威に対して吠えるために、それに恐れたようである。そのため善政で治安が治まると、夜に吠える犬無し、門前で吠える犬無しなどと評された。


 初唐の壁画には、李重潤墓壁画には鷹匠に縋る赤い首輪を付けた犬の絵があり、元師奨墓や薛氏墓の壁画にはリードを付けて散歩をする絵がある。元師奨墓の方は子供が犬を連れているが、唐詩にも顧在鎔の題玉芝雙奉院にて犬が童子に随って出てくる場面が詠われている。

 李賢墓の狩猟図には騎馬の背に大型の猫(※豹あるいは山猫)が乗っているものがいくつかあるが、

唐代の陶俑の中には犬が馬の背に乗っているものがある。どちらも主人が馬を操縦する後ろにお座りしている構図で、狩場に着くまで犬や鷹がこのようにして運ばれたと思われる。陶狗は漢代と同様に多く出土しているが、鮮やかな唐三彩で描かれるようになる。

 狩猟は昔から大規模に行われていたようで、何十人もの軽装の男たちは腰に刀を差し、弓や旗・手綱を手に馬を駆り、狩場へと走った。唐書の賈耽伝に彼の狩猟の同行者は100人に満たなかったというが、その言い回しから普段はそれ以上を目安にして良い。

 盛唐以降の絵画として、簪花仕女図に描かれる犬はとても小柄で毛長の犬で、赤い紐の首輪をして駆けまわっている。容姿からしてペキニーズ犬種に近いものだろう。華美な装いの仕女たちは当時の風俗における美女観を伝えるもので、小柄な犬と戯れることが彼女らの美貌を引き立てる風味の一つであったと思われる。

 似たようなものに晩唐の宮楽図があり、こちらの犬は机の下で蹲っているが、こちらは少なくとも小型犬が屋内で飼われていたということを示している。薛濤は自身を擬えた犬離主の詩で赤い絨毯の上で寝る犬を描写したが、これも室内犬を意識したものだろう。

 首輪には鈴が付いていることもあったようで、韋荘の詩には金色の鈴をつけた犬が何度か登場している。


 唐代において犬を含む家畜を庇護する詔は何度も出された。猫については言及されていない。

 最初は高祖李淵(618-626)のときで「関内諸州において宜しく屠殺を断つべし。六畜諸々甚だ多くして、民は甚だ豊かとなる。細緻に査定し条令を改めよ」とした。六畜は即ち犬・鶏・羊・馬・牛・猪であり、庶民が飼っているものとされる。

 全唐文5巻によれば、唐の高宗(650-683)は鹰犬の献上を禁じる詔を出した。これは「狩猟の娯楽は本来好く所にあらず、遠近に於いてこの文を布告する。異民族に鷹や犬を献上する者がいて遠方から来たことを慮り受け取っていたが、各地の官僚には犬・馬・鷹・隼を訪ね求める者がいる。これは道理では無いから今後は罪に問う。」という。

 さらに玄宗(712-756)は犬・鶏の屠殺禁止令を出すと共に鷹や犬を祭礼に捧げることを禁じ、肅宗(756-762)は宮廷で飼っている犬や鷹の削減と貢納の全面禁止を宣言した。

 唐代の宮廷において、鷹と犬は五坊の官署に管理されていた。一坊は鷲、二坊は隼、三坊は灰鷹、四坊が鷹で、五坊が犬であり、狩猟用の動物を飼育する部署である。唐書によれば晩唐の皇帝たちの多くは、病や日照りなど何かしらの凶事があるたびにこれら五坊の動物たちを放縦したりその貢納を禁じたと記される。

 入唐求法巡礼行記の宣宗即位の日記(846年5月22日分)には「元通り(※依旧)」家畜の殺生を禁じたとあり、道教を信奉する先代の皇帝武宗(841-846)が殺生を解禁していたことが察せられる。しかし宗教的理由というのは早計だろうか。

 少なくとも高祖と玄宗は宗教的立場を明確にしていない。高祖はこうした法令を慈悲ではなく節度のために定めたとし、また玄宗は犬は番犬として役立ち、鶏は朝を知らせるために役立つといった風に利を説いた。


 鹿や狐、兎を狙った狩猟自体は唐代を通して変わらず行われていた。唐書において蘇世長や虞世南は高祖が好んで狩猟をすることを諫めているし、高祖の子の李元吉や李元昌であったり、太宗の子である李恪や李愔らは狩猟を好んだとある。睿宗の頃の官僚だった柳澤は、富者たちの中で狩猟が行われていることに苦言を呈し、また張説は天子の狩猟を賛美する散文を書き、李白は大猟賦を詠んだ。

 全唐文630巻には文学家呂温が劉澭を賛美して書いた碑文の中で、良き鷹や才ある犬への欲を断ったと記される。

 明確な狩猟禁止は代宗が769年に布告した畿内における狩猟禁止の詔のみで、極々狭い範囲だった。


 今更特筆すべきことではないが、犬を飼うことは一般的だった。白居易が犬鳶の詩で犬が門前で日向ぼっこしてうたた寝するのどかな様子を詠っていたり、杜甫が自分の帰宅を喜ぶ犬を詠ったりと著名な文人にも犬は頗る好評である。

 また仏僧たちも犬を飼っていた。彼らは殺生や肉食を忌むので、狩猟犬や牧畜犬ではなく番犬であろう。

 円仁は入唐求法巡礼行記の開成5年(840年)4月23日の日記に、宿泊した寺に犬がいたと記録している。この犬は宿泊者のうち一般人には噛みつくが、僧侶を見ると尻尾を振ったという。

 続高僧伝の十四巻には智凱と呼ばれる僧が当時の江東の風習によって捨られた子犬たちを憐れんで拾い何十匹も育てた話や、同書20巻には道昂という僧が耳の悪い犬を飼っていた話があり、同じく25巻には法朗という僧がサルと犬を一匹ずつ飼っていた話がある。日本の諺には犬猿の仲という言葉があるが、こちらの猿は犬の背に乗って仲良く僧に付き従い、食事は法朗の余らせたものを食べていた。

 全唐文435巻には元德秀の死を嘆く詩の中に「誰かを府君(※富者)と為す。犬は必ず肉を食す」、また張籍の野老歌には「西江にて商人は珠百斛を扱い、船中で犬に肉を食わせ長く養う」とある。一方、続高僧伝20巻で飼い犬に「犬は別の食有り、僧の粥を與えるは莫し」とおかしなことを言う僧の曇倫に対して、家人はいつものことなのでこの言葉を用いなかった、という説話がある。

 これを踏まえると当時の犬の食事として富者たちは肉を与え、庶民は普段から余り物を与えていた。

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