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06.猫と中世イスラーム、そして犬

 ムハンマドは預言者であり、伝説によれば猫が蛇から彼を救った。また昼寝から醒めたとき猫が彼の袖を枕にしているのを見て、ムハンマドは袖を切って猫を起こさぬようにしたという。彼はハディースにおいて猫を愛することが信仰の一様式であるといい、猫を虐待することや殺すことは禁じられた。

 アル・ダミリの動物辞典には、猫に餌をやらなかった女奴隷が地獄の炎で焼かれた(※コーランでは不信心者が地獄の炎で焼かれることになっている)ともある。

 前述のギリシアの項ではイタチが猫と共にネズミ狩りに利用されていたが、中東にはイタチやジャコウネコがいなかったし、カワウソは居たが見た目から犬みたいに思われていた。



 ゾロアスター教下のササン朝ペルシャにおいて猫は、蛇、狼と共に害獣扱いだった。少なくと猫はアーリマンが生み出した存在とされていたという。

 しかし猫は飼われ始めていたかもしれない。

 シャーナメにはホスロー2世(在位591-628)の任命したフセインが任地であるレイの町で猫を全て殺そうとして、家の中に猫がいれば家に火を放つよう命じたとある。そして王妃ゴルディヤは彼女の故郷レイからきた住民による町の救済を嘆願を受けて、イヤリングを付けた子猫と共にホスロー2世を説得したという。

 またタバリーの「預言者と王の歴史」には、首都クテシフォンを包囲されたササン朝の残党たちは飢えて犬や猫を食べたとある。

 初期中世はどのような経路かはともかく飼い猫文化が世界に広まった時代だった。それはイスラム教圏に限ったことではなく、猫好きは多くの国・地域に現れた。そのことにイスラム化しているかどうかに関わらず、アラブ・ペルシアの商人の貢献によるものだろう。


 イスラム教下において猫は膝の上に載せて背を撫でるもので、家に居付いてネズミを齧るものである。忠誠心のある犬とは対照的に奔放で、油壺やガラス瓶や鳥かごを壊したり、コップに放尿したり、神殿の前で他の猫と喧嘩したりと、昔から好き放題という認識だった。

 にもかかわらずアル・ハリーリーは猫の鳴き声を甘い言葉と表現し、イブン・ハッリカーンは動けなくなった同胞の猫に餌を譲る殊勝さを讃え、ニザーミー・ギャンジャヴィーに至っては親猫が子猫を殺すことを親猫による愛情だと表現した。

 猫の詩はいくつか書かれた。

 10世紀の詩人アルナハワーニーによる猫の詩は、鳩小屋に入り込もうとした猫が小屋の持ち主に矢で射られて亡くなったことを嘆くものだったが、女奴隷への片思いを仮託したものだと言われる。

 一方、11世紀の詩人アブー・ジュリジャニは、

「私が彼女を避ければ私に甘えてきて、少し高い声で悲しげに鳴いて誘ってくる。彼女とトラブルがあれば、彼女はその爪を露わにする」

 といった感じに愛らしく猫を描写している。首輪には魔除けに貝殻のアクセサリをつけていたようだ。


 飼い猫は大抵肉を食べた。購入したものを与えることも、家のネズミを食べることもあった。また人が野良猫に肉の切れ端を投げ与えることもあった。お金に困った人間が節約のために猫の餌を食べる程度には価値があったという。

 猫には水も十分与えねばならない。猫が水を飲もうとしたならば、ウドゥ(※お清めの水)さえも与えることを許されていた。

 猫は飼い主と同じ家で一緒に暮らし、ときどき家から抜け出して路地や屋根、よその屋敷を歩き回った。



 ゾロアスター教下において犬は神聖な生き物だった。アヴェスタでは牧羊犬、狩猟犬、番犬は勿論のこと野良犬でさえも様々な言葉で称揚し、家庭においては泥棒や狼、そして悪霊を追い払う善なる存在だとされた。

 食事には肉と乳を与えるべきとする。一方、サッドダーには飼い主が食事のパンを食べる時、三口分を残して犬に与えなければならないとある。路上で犬が寝ていても強引に起こしてはならず、当然殴ることも禁止されていた。

 それがイスラム教下では一転して、犬は悪魔であると評された。


 イスラム教の教義に基づけば基本的に犬は飼わない。犬のいる家には天使が入れないためである。

 伝承によれば、ガブリエルがムハンマドの家に入れずにいたとき、女奴隷が家を調べ上げて床下に野良犬の死骸を見つけ、それを家の裏に捨てることで解決したという。

 とはいえ多くのハディースは牧羊犬と狩猟犬、番犬以外の飼い犬を禁じているし、イマーム・マリクのムワッターによれば害ある生き物と見做されているのは野生の犬である。そのためベドウィンの牧畜文化と、富豪たちの狩猟文化は守られていた。犬がいなければ人間は狩猟もまともに出来ないし、羊の群れを統制することも出来ないし、治安の悪い中世都市で身を守ることも出来なかった。

 野良犬たちは、路地や廃園に捨てられた死体を貪り食べていた。完史やカリフの歴史には、いくつかそのような描写が見られる。


 犬についての詩は、猫に対するそれと並んで多く作られていた。これし狩猟詩というスタイルがイスラム文学に存在していたからであり、ウマイヤ朝およびアッバース朝の詩には躍動感ある狩猟犬の姿が良く描写されている。一方、牧羊犬についての記述はとても少ない。

 中東の牧羊犬はベドウィンが現在も飼っているサルーキである。この犬は垂れ耳で、スマートな体型をしていた。体高は60-70cmで、体重は15-30kg。古代エジプトより長い歴史のある犬で、その名称はセレウコス朝時代の都市の名からつけられたという。

 テントを組んで休むとき、犬は鎖に繋がれて戸口で番犬の役割を担当していて、夜闇の中、犬の鳴き声を聞いたベドウィンたちはテントから出てきて焚火を焚いた。狼やハイエナを警戒するためである。もし砂漠で迷った旅人であれば焚火に誘われて、ベドウィンのテントに辿り着くことが出来た。

 これは郊外のテントの話であって、街中で夜に犬の鳴き声を聞いた者は怯え、恐れた。

カリフの歴史によれば、ウマイヤ朝のカリフであるアル・アミーンは犬に吠えられるよりライオンに殺される方がマシだと言い、アッバース朝のカリフだったアル・ハキムは、夜の散歩で犬が吠えて煩いので狩猟犬以外の全ての犬を皆殺しにするよう命じたという。


 中東で利用された狩猟犬もサルーキである。猫同様に邪眼を防ぐ白い貝殻の首飾りを付け、雌雄2匹以上のチームで獲物を追った。

 有力者が狩猟をする際は、自らが犬を飼育したり狩りで使役するわけではなく、彼らの犬を育てて狩りでその犬を使役するのは犬係の役割だった。正統カリフのウスマーンは自分に慣れてない犬に引っかかれたり咬まれたりしたという。


 犬と鷹を組み合わせた狩猟の様子は、ムンキズの回想録やアル=ダミリの動物辞典に書かれている。

 また、ササン朝の頃には銀器に、イスラム化後にはミニアチュールに狩猟図が描かれた。基本的にはターバンを巻いた狩人が騎乗して獲物に弓を構える構図で、時々犬はそれに添えられていた。

 狩りは早朝から行われる。

 鷹に目隠しの覆いをし、犬は馬かラクダに乗せて出発する。目的地に着くと、まず先に鷹を飛ばして獲物の捜索をさせ、群れを見つけると鷹は上空を旋回する。それに合わせて狩人は紐を外して犬を放ち、鷹の方は獲物の妨害を始める。もし獲物を食用にするならば狩人はイスラム教徒で且つ犬を放つ前にアラーの名を呼ばなければならない。

 狩りの一般的なターゲットは兎やガゼル、アンテロープである。幾つかの物語や絵画では獅子を狩ったりもしているが無視して良い。

 鷹は獲物の視界を妨害し、出来れば動きも妨害する。狩人はリーダーの犬1,2匹を先行させて後を追い、他の犬もそれに続く。

 狩人が辿り着いたときには決着がついていることもあるが、犬たちが獲物と争っているのであれば狩人が矢を放つ、そのときもアラーの名を言う必要がある。獲物を倒した後、まだ生きていればナイフで適切に止めを刺した。

 狩猟詩は多く書かれた。

 ベドウィンであるアル・タビーブの詩はムファッダリヤートにある。

「その垂れ耳の猟犬は、速く走るとその頭は地面に近づき、その前脚の爪は耳を掴んで彼らに傷を負わせた。」

 またアッバース朝の詩人アブ・ヌワースは愛犬の詩を書いた。

「白く逞しいガゼル、私の犬たち、そんな自由な群衆たちの中、彼は雲海と星屑の狭間に輝く雷光のように、素早く獲物を掴み取る」

犬はとにかく迅速だった。

 そしてアブ・ヌワースの愛犬やアブー・ジュリジャニの愛猫の最期がそうであったように、飼い犬にとっても飼い猫にとっても恐るべき天敵は蛇だった。


 番犬としての代表はコーランにある洞窟の七人の同志とされる犬である。彼は洞窟の前に寝そべり、同志たちが瞑想する中で天使を含む全ての他者の侵入を防いでいた。

 コーランでの活躍にも拘らず、犬に対して過激な手法が取られることは何度もあった。

 また犬と呼ばれることは非難の象徴で、有能とは言えない君主に対しては中傷として扱われた。ヤズィード1世、対立カリフのアブドゥッラー・イブン・アッズバイルや、ブワイフ家のイッズ・ウッダウラら暗君への非難の言葉として、犬を撫でたとか犬と遊んだとか書かれた。

 その後、近代に至ると狩りの文化はほぼ失われ、ベドウィンを除くイスラム教徒は犬を飼わなくなった。


 犬は犬用の皿で食事や水を取る。人の皿を舐めたら、七度皿を洗わなければならないという規則があった。

 ルーミーのマスナビーでは、犬が飼い主からパンを与えられているし、ニザーミ―の書いた「犬と狩人と狐の物語」には、狩人が自身のパンを犬に分けていたとある。またサアディ―のゴレスターンの記述から、骨を投げ与えれば犬が喜ぶ程度のことは知られていたようだ。

 狩猟犬が獲物の一部を齧り取ったとき、その獲物を人が食べることは禁じられた。

 屋内に入ることは推奨されず、屋外の犬小屋か野ざらしで寝た。


 少なくとも狩猟犬は愛玩猫より高価だったようだ。

 スユーティーのカリフの歴史によれば、イスラム暦459年には物価の高騰があり、小麦が100ディナール、犬が50ディナール、猫が30ディナールで売られたという。

 またジャーヒズの動物の書によれば、狩猟犬は40ディルハムで買えたとある。ハディースでは狩猟犬を含む犬を売ることは禁じられているが、野生の犬を飼いならすことは現実的では無かった。

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