05.古代中国─食べない方の犬─
犬という漢字は犬の象形文字で、甲骨文字だと右の払いが尻尾で、点は鼻と立ち耳だという。漢代の出土品からはそうした立ち耳で尻丸出しの犬種の陶器が幾つも発見されている。
さて、中国の犬と言えば食用のチャウチャウ種や皇帝御用達の愛玩犬ペキニーズ種、番犬兼闘犬のシャーペイや、重慶犬とそれによく似た複数の狩猟犬種と多彩である。
史書からは翟犬(尾の長い犬)や白犬、韓盧犬(韓[※河南]の黒毛犬)、短喙犬(むく毛で口が短く声の高い犬:チャウチャウだろう)といった特徴が挙げられている。そして出土史料を見ても、古代から容貌の異なる複数の品種があったことが伺える。
立ち耳で尻尾を立てた犬種は狩猟犬だと思われる。
狡兎死して走狗煮らるという諺が史記の越王世家に見え、戦国策の斉策に臨淄の民の娯楽として犬を走らせるものが挙げられていて、さらに塩鉄論の刺権編に富裕な貴族が贅沢の一環として犬を放って兎を走らすとあり、古くから犬で兎を追う娯楽があることは窺える。
出土品には、河北唐山戦国墓出土の銅壺鑲嵌狩猟図に犬の姿があり、鳥を捕らえているように見えるがこちらは確定できない。他の多くの春秋戦国時代の狩猟図には犬の姿が見えないためである。
とはいうものの礼記の少義編には、休耕している田んぼで狩猟を行っていたとして、狩猟をする犬が田犬と呼ばれている。また甲骨文合集を参照すると犬を狩猟に連れていくことや鳥を捕らえることを卜っている。
考古史料として犬と共に狩猟をしていたことが明確に確認できるのは漢代の画像石(※彫刻画)で、例えば江蘇徐州の画像石には三匹の犬が狩りに向かう行列の中に並ぶ絵画があり、河南の鄭州や南陽の画像石には躍動感のある犬が描かれている。
後漢書皇后紀や三国志袁紹伝は犬による狩猟に加えて鷹狩にも触れているが、確かに後漢代の山東嘉祥の画像石の一つには鷹の姿が見える。
晋の傅玄が、初学記に引用される走狗賦に「素早い人も鷹には及ばず、勇猛な人も虎には及ばない。これは良犬の天性であり、鷹虎二つの俊英の強さを兼ねる──(※以下略)」と書くように、少なくとも魏晋の頃には郊外の林や平野で鹿や兎を追っていたようである。
仏教伝来前の墓に描かれる画像石は、極楽浄土ではなく生前の豊かな暮らしを絵画で再現していた。四川成都の画像石の一つには蓮池に浮かべた小舟の上で遊ぶ犬の姿があり、曾家包漢墓の画像石には田園で家禽を追っている姿が見える。
三輔黄図によれば漢の宮廷では上林という庭園が造られ、皇帝は上林内にある犬台宮で走る犬を鑑賞した。史記司馬相如伝によれば狗監が皇帝の犬の飼育を担当していたという。
番犬は、礼記において守犬と呼ばれる。左氏伝の襄公十八年に、秦周の雍門にいた犬を御者の追喜が打ち殺した話があるように、城の門番として置かれていたようである。
漢代の遼陽北園1号墓には穀物庫の門前に犬が臥せる壁画が描かれている。ただこちらは単に餌目当ての犬を描いたのかもしれない。
三国志朱異伝には張儼の詠った犬賦が書かれており「守れば即ち威厳有り」とある。
戦国策の斉策には、盗跖の犬が堯に吠えるのは堯が賤しいためではなく犬の飼い主ではないからである、という説話があり、漢書の鄒陽伝には桀の犬について同様の説話が挙げられている。
犬は殷周の頃には槁人と呼ばれる官吏によって飼育され、犬人と呼ばれる官吏の手によって聖餐としての役割を果たしたり、占いのために殺されたり、あるいは殉葬させられていたが、そうした意味合いの薄れた戦国以降において犬は私的に飼うものだった。
西京雜記には茂陵の少年李亨が俊足の犬4匹を飼っていたとあり、また楊萬年が百金で買った猛犬に青駮と名付けた話がある。
犬を飼うのに豊かさは無関係だったようで、梁代の顔氏家訓には、益陽の朱詹は貧しくて布団も無く代わりに犬を抱いて寝ていたとある。
三国志諸葛恪伝には主人を引き留める飼い犬の姿があり、捜神記には襄陽の李信純や呉の華隆がとても大事にしていた飼い犬に命を助けられる説話もある。
飼い犬は市井でも珍しくなく、夜にはどこでも遠吠えが聞こえるのが普通だった。犬が一匹吠えれば皆吠えるという諺も度々使われていた。
殷代の犬の殉葬は信仰的なものだったが、漢代以降の墓では犬が別の形で登場する。
絵画と陶俑である。
漢代の遼陽北園3号墓には険しい形相の犬が描かれている。守衛の壁画と共に、立ち入りを禁ずる墓の門番として描かれていたのだろう。
漢代とくに後漢の墓からは陶製の犬像が幾つも出土している。中には犬小屋付きの陶器もあり、これには小屋と器と壺が付属している。食器皿と水甕だろうか。
幾つもの陶犬を確認すると、半立ち耳の犬種と立ち耳の犬種、頬の垂れた犬種がある。
大半が短毛種だがむく毛の陶犬もある。また立ち耳の犬種でもスマートなサイトハウンド犬と凛々しいスピッツ犬の造形は対比的である。
陶犬の装具には首輪のみをつけた狩猟犬がいる一方で、馬のハーネスに前掛けが付いたような装飾を付けているように見えるものもある。前漢紀の高祖皇帝紀には劉邦が咸陽に入った時に犬や馬の飾り立てが盛んだったとあり、また漢書東方朔伝に犬や馬が鮮やかな毛織物を纏っていたともあり、ハーネスを使って荷馬のように犬を用いたというよりは派手な装飾としてのデザインだろう。
猛犬の類の首輪は西方のものと同様に金属の釘が取り付けられていたように見える。楚辞の天問で触れられるように噛み癖のある犬もいたのだろう。
犬の餌としては周礼に粟を食すと良いとある。
また後漢書貨殖伝に、桓文(斉桓公と晋文公)の後には貧富の差が広がったため、富者の飼う犬と馬は粟や肉を余すほどだったとあり、同王莽伝には豆や粟を余すほどだったとある。
三国志孫晧伝に引く江表伝には沢山の犬を養うために兎を大量に捕らえて厨房で調理した話があり、金樓子には犬と馬が黍を貪り食った話がある。
一方、顔氏家訓の朱詹は貧しく犬に餌をやれなかったため、犬は民家に入って餌を盗み食いしていたという。
甘粛嘉峪関の魏晋墓には鎖に繋がれた垂れ耳の犬が描かれている。垂れ耳の犬は漢代陶犬の中にもごくまれに見えるが、南北朝時代の北朝では頻繁に出土するもので、北方文化の影響なのかもしれないが、こうした史料の犬は細身であり、モンゴルのマスティフ犬種にはとても見えない。シルクロード経由で伝わったインドか中東の犬だろう。
闘犬の描写は史書に無い。
左氏伝の宣公二年に、晋の霊公が趙盾に猛犬を嗾ける話がある。爾雅によれば四尺(1尺大体20~30cm)を越えるものが猛犬だというが、犬同士の争いは史料の中にも今のところ確認できていない。
チャウチャウは食用の犬であるが、古代の犬の調理については黄帝内経や斉民要術にある。また金医要略には犬の部位を使った治療法がある。記述は省くが、少なくとも斉民要術にあるのは聖餐として煮る調理法だろう。
白川氏の字通によれば家という字は、聖餐としての犬を示す。殷代には墓地に魔除けとして殉葬されたらしい。
また周以後には鼎で煮られたようで、犬の骨の入った鼎が発見されている。鼎は説文に五味の神器という。五味とは酸・塩辛・苦い・甘い・辛いの五種類で、黄帝内経では五種の家畜と結び付けられ、順に犬・猪・牛・羊・鶏が当て嵌められてる。
こうした業務は周では犬人という官職によって行われていたが、戦国時代に入った後も楚では犬を使って卜占をする内容の竹簡が何本も出土している。包山楚簡、望山楚簡には甲骨文と同様に白犬を用いる卜が見える。こういった儀式は儒教式オカルトの発展によって漢代には殆ど淘汰され、犬食という慣習だけが残ったのだろう。
ところで犬には戌という漢字もあるが、十二支は祭祀に使う漢字に動物を当てはめただけである。
一方、猫は説文には狸の類とある。礼記にあるように田んぼでネズミを捕らえることは知られていて祭祀の対象だったが、古代において飼われることは無かった。