03.ローマ帝国の愛犬たち
広大なローマ帝国には、その分だけ様々な犬種がいる。まだ合理的な品種改良などはされていないものの、地域の環境に合わせて犬の外見や特徴は異なっていた。
マスティフ犬は中近東から交易を介して欧州に広まった犬種で、セントバーナードの先祖でもある。
体高70cm超、体重80kg。大きくて力強い。
ローマでは闘犬としてコロッセウムで戦わされていたようで、ライオンなどの猛獣だけでなく犬の骨も出土している。
スエトニウスのローマ皇帝伝には、ドミティアヌス帝(在位81-96)当時の剣闘士の雇い主が、不正試合の罪を問われて闘技場に引きずり出され、犬に襲われたとある。
処刑はコロッセウムで催されるイベントの一つで、剣闘士大会が始まる前の昼間に行われた。
この犬種は牧羊犬としても利用されていた。
小カトーの農業論によればラコニア犬、エピルス犬、サレンティア犬が推奨されているが、アリストテレスの動物誌によればエピルス犬はマスティフで、ラコニア犬は犬と狐のハーフで足の速い犬だという。サレンティアはイタリア南部の踵に位置するサレント半島を示すことから、当地の犬であるイタリアン・マスティフ(ナポリタン・マスティフ)だろう。
この農業論では、長い尾や白い毛並みなどの外見上の規定のほかに、噛み癖に鞭で対処すること、首輪をつけること、基本的に雌雄のつがいで飼うこと、新しく犬を購入するときの注意事項と子犬の育て方、訓練方法は地域柄に合わせて変えるべきといった飼育のルールが述べられている。
ただしラコニア犬はマスティフではなく、後述するサイトハウンド犬であるとされる。
サイトハウンド犬もマスティフ同様中近東からヨーロッパに伝わった犬種だった。特に地中海地域において多様性のある犬種であり、スマートな見た目で足が速い。この時代には北アフリカのチスム犬、イタリアやブリテン島やイベリア半島のグレイハウンド、中東のスルーギやギリシャのサルーキが居た。
これらサイトハウンド系の犬種は、ローマ時代には主に狩猟犬や番犬として用いられていた。
狩猟犬としては、グラティウスの狩猟詩や小セネカの寛容についてに触れられている。後者には「狩人は子犬に野獣の足跡を追うよう教える時も、訓練された犬で巣から獲物を追い出して狩る時も、棒で打ち付けるような脅しをしない。それは彼らの魂を打ち砕き、彼らを愚かにさせて恐れを抱かせる。一方で、狩人は犬たちに誓約のない距離を歩き回ることを許さない」とある。
また大プリニウスの博物誌によれば、「猟犬は足跡を辿って追跡し、彼の探索に向かって伴う追跡者の革ひもを引っ張る。そしていかに静かに隠れていようと獲物を目撃すると、犬は最初に尻尾でそれを合図し、彼らが年老いていて盲目で弱っていて疲れていても、次に鼻面で重要な指示を与える──」。
恐らくターゲットは兎で、内容から基本的にはギリシア時代の狩猟とさほど変わりないと思われる。
他の獲物として、イーストコーカーウィラには犬と共に鹿狩りの成果を運ぶモザイク画が残されている。またリズリーパークで出土した銀皿には男たちと共に猪を狩る3匹の犬が描かれている。
アウレリウス・アントニヌスの自省録によれば、犬たちの調教は馬の調教師が担当していた。
またプルタルコス対比列伝のファビウス・マクシムス伝では、調教師は突き棒や重い首輪、餌と親しみと世話を持って調教に取り組んだと読み取れる。
同書のアエミリウス・パウルス伝から調教師が主にギリシア人だったことも察せられる。
番犬として飼われているとき、犬は玄関に鎖で繋がれていた。リードに繋げられた革製の首輪には銅細工の釘が散りばめられていて、時々警鐘用の鈴が付いていた。
ペトロニウスのサテュリコン第29部によれば、飼い主は玄関の前に「犬に気を付けろ」という注意書きを記した。
ポンペイ遺跡の幾つかの建物の床や壁には、リードにつながれた犬のモザイク画に注意書きの碑文が添えられている。モザイク画は赤犬もしくは黒犬で、現代の犬のように洗練された容姿では無かった。
ポンペイでは人間同様に灰に埋まった犬たちが出土しているが、それは逃げようとして穴を掘っている姿だった。
ところで犬に噛まれたとき狂犬病の薬などは無く、その対処法として例えばディオスコリデスの薬物誌には、クコの実、蟹の灰、犬の血や尿、蜂蜜などの摂取が採用されていた。
犬は娯楽の道具としても利用された。
カッシウス・ディオのローマ史によれば、ネロ帝は犬にチャリオットを引く練習をさせている。
またローマ皇帝群像によれば、ヘリオガバルス帝(在位218-222)が4匹の大きな犬にチャリオットの装具を付けて宮廷を駆け巡ったという。
こうした道楽にマスティフとサイトハウンドのどちらが用いられたかは分からない。
マルチーズはマルタ島の犬種で、小柄なことから古典ギリシャ時代より愛玩犬として扱われてきた。
体高25cm超、体重2kg。
マルティアリスのエピグラムマタに謳われる小さな犬Issaは恐らくこの犬だろう。この詩には「小さな犬Issaはカトゥルスの雀より遊び心があり、鳩のキスより純真で、多くの乙女より愛らしい。Issaはインドの宝石に勝る価値がある──。」と称えられている。
その他に、キケロの占いについて(※及びこれを参照したプルタルコスの対比列伝には)、執政官アエミリウス・パウルスの娘テルティアの飼っていた小さな犬ペルセウスを飼っていて、この犬が亡くなって悲しい顔を浮かべたと書かれている。
愛玩犬は主人の膝の上で休み、皿の上に載せられた白いパンを食べさせたり、時には直接手やカップで与えられ、移動する際は奴隷に抱えられていて、眠るときはベッドの上だった。
普通の飼い犬の食事には、食べ残しのパンや犬用のパンと水が与えられた。犬用のパンというのはラテン語でsordes farrisとかpanis ater、Sordido paneなどと呼ばれる。順に「粗末な麦」「黒パン」「粗末なパン」と一応訳す。つまりライ麦パンのことだろうが、注釈によっては小麦のぬかが混ざっていたと言われている。
また新約聖書には家庭の犬がこぼれたパン屑を舐める描写もある。
犬に対して食べ残しの肉や骨を投げ与えることもあった。ただし牧羊犬には肉を食べさせることは禁じられていて、小カトーの農業論によれば大麦とミルクが推奨された。
野良犬は人間の死骸も食べた。
アッピアヌスのローマ史によれば、クィントゥス・ポンペイウス・ルーファスは紀元前88年にガイウス・マリウスの支持者によって殺されて、埋葬が許可されなかったため死骸は犬や鳥に食われた。
同様にディオニュシオス・ハリカルナッソスのローマ古代誌によれば、ガイウス・ゲヌキウスらの反乱軍は全員処刑され、埋葬が許可されずに犬や鳥に引き裂かれたという。
そしてローマ皇帝群像によれば、197年、クロディウス・アルビヌス帝の遺体は数日放置された後、犬にズタズタにされ、川に投げ捨てられた。
野犬が街中に現れることはまだ珍しくなかった。
アウルス・ウィッテリウス帝の屋敷には犬専用の部屋があったが、民衆も屋内や犬小屋で犬を飼っていて葉っぱや草や藁で寝床を作った。またハドリアヌス帝は犬馬を好んでいてそのために墓を作ったが、民衆もそれは同様であり、犬のために碑文を遺しており、ときには生前の姿を模した彫刻を造って墓碑にした。
ラテン碑文集成6巻の29896番は典型的な例であり、以下の内容である。
「ガリアは宝物でいっぱいの海から真珠貝(ラテン語でマルガリータ)を、私の名前として私の誕生日に与えてくれた。これは私の美しさに似合った名誉だった。私は不思議な森を駆け抜けて訓練し、幾多の丘で野獣を狩り尽くし、私の白い身体には重い鎖や棒の殴打を被ることも無かった。
かつて私は御主人様と奥方様の柔らかい膝上に横になっていて、疲れたときにはベッドに行くことを彼らは知っていた。私は犬として許される限り以上に叫ばず、静かにしていた。誰も私の鳴き声を恐れなかったが、しかし今私は不運な死に打ち勝てず、小さな大理石の下で大地が私を覆っている」
他に第6巻39093番や第10巻659番など、愛犬のための碑文は幾つも確認できる。碑文と共に生前の愛犬の姿を彫ることもあった。
犬に関する刑罰に関係して、パウルスの断案禄を見ると、四足動物が損害を与えたり何かを消費したとき、所有者に賠償金を払うか動物を所有者に放棄させる要求が出来たという。
またユスティニアヌス1世のローマ法大全第17条には、親族に対する殺人に対する処罰は、剣の刑または火刑、または犬・雄鶏・蛇・猿と共に袋にまとめられて地域に応じて海や川に投げ捨てるとある。
犬に加害したときの法令は見当たらないが、少なくとも棒で殴ることは道徳的でないと見做されていた。
プルタルコスの対比列伝のロムルス伝によれば、ルペルカーリア祭では犬が犠牲になった。
そして大プリニウスの博物誌によれば、古代からの慣習でユウェンタスとスムマヌスの神殿では毎年、生きたまま十字架に貼り付けられていた。またマナ・ジェニタと呼ばれる女神のために子犬の肉が聖餐にされたという。
犬の犠牲は古代エジプトや古代中国の慣習にも窺える。
犬はローマの富裕層の社会的ステータスというより個人的な娯楽の一つだったように見える。
ローマ人は子犬を買うと人間と同じような名前を付け、何度となくキスをしたり、顔を舐め回させるのを許した。一方で犬愛好家コミュニティや技能を競う大会などが開催されることは無かった。
犬の従順さと忠誠心はギリシャ人やローマ人の希望に叶い、彼らの経済状況が許す限りの愛情を与えていた。