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12.中国宋代の猫文化、およびその他の猫

 宋代に入ると、猫をテーマにした絵画は山ほど描かれるようになった。宣和画譜という宋代宮廷の所蔵目絵画録には「猫図」と題される作品が幾つも確認できる。

 宋代絵画で現存するものにも易元吉の猿猫図、毛益筆の蜀葵遊猫図のほか、戯猫図など作者不明のものが多くある。こうした猫の絵の幾つかには首に赤い紐が巻かれている。疑いなく飼い猫である。

 犬の殺生の禁止令を出した南宋の徽宗も猫の絵画を良く描いていた。その一つ、猫猫図では三毛猫や鯖猫、白猫が野原で戯れている。


 猫の詩は幾つも作られた。

 例えば陸游は「塩一包で猫を召し、座椅子の隅で戯れるのを見守る。それはいつもミントに酔い、毎晩絨毯を占拠する。それが鼠の穴の功を並べれば、どうして山ほどの魚で賞賛しないことがあろうか。それに基づき当に名を決めるべきとし、小虎と喚ぶ」と詩を詠んだ。

 また胡仲弓は「瓶に蓄えた一斗の粟を鼠が悉く盗むも、床上の猫は知らずに眠る。家人は未だ庇護すること致し方なく、魚と米を買い猫の子を養う」と詠んだ。

 他にも子猫を可愛がる詩や亡くなった猫を嘆く詩などがある。


 夢粱録によれば猫は都の人々がネズミを捕まえるために飼う。そして白黄色の毛並みのものを獅猫と呼び、鼠を捕らえることはできないが容貌が美しいため多くの高官の邸宅で飼われていたという。

 咸淳臨安志によれば南宋の宰相秦檜の孫娘である崇国夫人は飼っていた獅猫が逃げ出してしまうと、官兵に命じて首都臨安の猫という猫を尽く捕らえさせ探させたという。

 揮麈録には、偶然通りかかった猫を足蹴にした男が宮廷の選考会を追い出された話がある。宋代において踏まれるくらいには市井に猫が暮らしていたようだ。


 詩にもあるように宋代の飼い猫の食事は主に魚だった。

 夢粱録には犬を養うなら餳糠(米粉を捏ねて丸めたものか)、猫を養うなら魚鰍(小型の川魚)をやるようにとある。東京夢華録にも同様のことが書いてある。

 陸游の入蜀記では、楊羅洑では魚がみな巨大であるため、飼い猫が小魚を求めても得られない、と言った言い回しをしている。

 他に、餌として与えられたようには見えないものの、宋代の絵画の一つには小鳥を咥えている猫の絵がある。

 范成大の詩「習閒」の飼い猫は毛織の敷物の上で眠り、楊萬里の「新暑追涼」の猫は桃枝竹で編んだ床で眠った。萍洲可談には衣類籠の中で臥せている猫が居るし、大体好きな場所で寝たようである。


 埤雅によれば猫が死んだら土に埋めず、木に吊るすべしという。これについて帰田録では「世の人は誰でも知っていることだが、猫が死んだ場所から竹が生えるのだ」と説明されている。また瑣碎録には、狸か猫を垣根の下に埋めると翌年に筍が生えてくるとある。


 宋代において、猫の頭のような形のタケノコが生えることから猫竹(猫頭竹)と呼ばれる竹の種類が分類されるようになった。

 また猫の瞳は宝石の名前に例えられた。萍洲可談によれば、最も価値のある宝石は猫児眼睛(キャッツアイか?)であるとする。



 元代の輟耕録によれば大殿の壁布に黄猫の毛皮を用いたという。確認した限りでは猫についてはあまり好まれていなかったように見えるが、幾つかの絵画に猫の姿が認められる。

 またモンゴル人は豹やテンだけでなく犬の毛皮を衣類にしていたという。


 明史の袁煒伝によれば嘉靖帝(1521-1567)が猫を可愛がっていた。仄かに青い毛並みで、霜眉と名付けていたという。

 野获編には犬や猫が都の川で水浴びをしたとある。 農政全書には犬や猫が病気になった時や猫が踏まれた時の治療法がある。死んでも蘇るらしいが定かではない。



 タイではアユタヤ王朝期にTamra Maewという猫22種の品種や世話の仕方についての本が書かれた。魚や穀物を与え、猫用の寝台も用意されたという。

 タイにおける人為的でない猫の種の分化は14世紀と言われる。タイの猫は19世紀になって顕著に称揚された。少なくともそれまで対外的な取引対象ではなかったようで明史や清史稿には確認できない。


 インドでは多分中国より早い時期に猫が居た。

 マハーバーラタにまず森の中で鼠を追う猫が確認できる。マヌ法典では、猫はあまり良いものとしては認識されていない。猫を含む禽獣を殺したときは最下級カーストの人間を殺したときと同程度の罰を受けることになっていた。

 カウティリヤの実理論では、鼠を捕まえるための方法としてマングースと共に提案されている。また猫や犬を盗んだ時、等価の罰金を支払うか鼻を切り落とされた。


 日本には弥生時代末期にやってきたというが、その頃は飼われてはいなかったようだ。また壱岐島での発見というからかなり限定的ではある。

 飼い猫が文献で見られるのは平安時代からになる。

 11世紀の小右記や更級日記、源氏物語などに猫のことが書かれている。 枕草子によれば当時の帝である一条天皇が猫を好み、官位を与えて世話係を付けていたという。また背が黒く腹の白いものが魅力的で、白い札の付いた赤い綱を首に巻いて重りの付いた緒や組糸に付けてそれを引く姿が可愛らしいと記した。

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