11.中世の猫と文鳥
ヨーロッパの飼い猫文化の明示的な例として、10世紀のビザンツ帝国の皇后ゾラがいる。しかし猫に関するテキストの増加は12世紀以降に比較的多く現れるようになる。
アルベルト・マグヌスは「動物について」において、猫は優しく掻かれることを好むと書いた。
13世紀初頭に書かれた隠修女の規則によれば、彼女らは猫以外の動物を飼うことを禁じられていた。14世紀に書かれたピエトロ・ド・クレシェンツィによる農業の本では、鼠を捕まえる方法として飼い慣らされた猫を利用することを第一に推奨している。
中世において飼い猫の文化は普及しつつあったといえる。
12世紀末の狐物語には狐と仲良く悪戯を仕掛けようとする猫の姿がある。猫の悪戯は当時からよく知られていた。
ヒルデガルド・ビンゲンは猫が餌を食べるときだけ懐いてくることに苦言を呈した。またフランコ・サケッティのノヴェッレ130話には、猫が飼い主のベルトに掴みかかったり、引き離そうとする主人を引っ掻く描写がされている。
マリー・ド・フランスの寓話とされる「猫と野鼠と溝鼠、或いは司教になった猫」には鼠を捕るために甘く鳴いたり、家の壁に空いた穴に爪を伸ばす、西洋の戯画で典型的な猫が描写される。
猫の食事は基本的には捕らえたネズミである。
しかし聖ブレンダンの伝記では魚が、チョーサーのカンタベリ物語にある賄い方の話では肉が食事として提示されている。与えられる飲み物はミルクだった。猫は水に入るのを嫌うと考えられていた。
飼い猫は主人の家中で暮らし、暖炉の傍に居座り、主人の膝上やベッドの上で眠った。猫たちは自由に家を歩き回っていた。猫用の出入り口として部屋のドアの近くに小さな穴が開けられていることもあった。
外に連れ出すときは檻に入れられた。薔薇物語には、飼いならした猫を叩いて呼びつけて首輪をして檻に入れようとしても怒って逃げ出すことがあると書いてある。
ヨーロッパで町が生まれ、そして市場が形成されると、猫の毛皮は比較的質の悪い毛皮として流通するようになった。
1315年に書かれたロンドンに来る商品に対する一時的な課税表の中には、猫の毛皮一包につき0.5ペニーの課税とある。また15世紀ロンドンの貿易記録には猫の毛皮の輸出入の記録が複数ある。
クローズロールの1368年1月30日の申し立て文にあるKatherine Engayneが保持していたラクストン荘園での狩猟対象の猫catumはヤマネコのようであるが、猫murilegus(※鼠を捕まえる猫)と区別されて併記されている。
パテントロールには、フォレストにおける猫やその他の動物の狩猟許可が貴族たちに一々出されたことが確認できる。その14世紀初頭の記録には、市場に持ち込まれる猫の毛皮は他の商品と同様に、臨時に設けられる道路舗装税および城壁税の対象となったとある。
またサリンベーネの年代記によれば、イタリア北部での戦時の混乱の中で飼い猫たちが罠に掛けられてその毛皮が商人に売られたという。
猫はイエネコか、ヤマネコかに関わらず毛皮になったようだ。
1233年、教皇グレゴリオス9世は異端審問への呼びかけにおいて、猫と異端の繋がりについて触れた。南フランスの異端カタリ派は綴りをcatharとしていたことから、12世紀頃には既に猫と結び付けられて考えられていた。しかしロワ・ラデュリによる南フランスのモンタイユの記録において猫に対する特別好意的な描写は無い。
猫に限らず動物への信仰は異端として見られた。かつてローマ人は黒い野良犬が町を駆けることを不吉に感じていたという。正義と純粋さを示す白の対比として、黒い姿の動物は悪魔の変身したものと考えられた。
13世紀のスクラクロニカには、自らがエドワード2世に代わる国王だと宣言した男が処刑されることになった時、猫の形をした悪魔が彼に宣言させたと白状したとある。こうした例は複数ある。
15世紀末には教皇イノケンティウス8世が猫を中傷した。前々任者である教皇パウルス2世は猫を飼っていたにかかわらず。
また魔女の槌の第二部では、悪魔は猫の姿になって人に傷を負わせている。マシュー・ホプキンスは魔女を見つける方法の一つとして鼠やドブネズミ、猫と話すことを挙げた。とはいえ魔女裁判の記録を確認すると、使い魔は犬でもカエルでも良かった。
こうした記録は魔女が市井の人々であることからして、むしろ飼い猫がさほど珍しくなくなったことを説明する。
少なくとも中世において猫はペストを蔓延させる原因とは考えられていなかった。
しかし17世紀には犬と猫が原因の一つと考えられた。ロンドンで大流行があり、そこで犬と猫は一掃されることになった。当時のロンドンでは犬と猫は数万~数十万匹も居たようである。
16世紀以降の絵画の中には猫をモデルにしたものが現れる。バッキアッカの「猫を抱く若い女性」が代表であるが、探してみると主役とは言えないもののアントネロ・ダ・メッシーナの「書斎の聖ヒエロニムス」やロレンツォ・ロットの「受胎告知」にも猫を確認することが出来る。
16世紀の詩人ジョアシャン・デュ・ベレーは灰色の飼い猫ブローの死を嘆き、またル・ヴァイエはエジプト産の雌猫の詩を書いた。
飼われるようになった猫に対する受け止め方は様々だった。とにかく甘やかされたり、あるいは鼠狩りや毛皮商人の商品であったり、好き勝手に悪戯することから嫌われたりもしたが、長い中世を経て猫は居て当り前の存在となった。
ペットとしての文鳥は、イスラーム教国やヨーロッパでも飼われていた。アラジンの映画で有名なオウムも中世イスラーム世界では一般的だった。千夜一夜物語の一つには100ディナールで購入したオウムの話があり、またルーミーのマスナビ―にはオウムを飼う油売りの話がある。
初期中世のヨーロッパの中ではビザンツ帝国内で知られていたようで、フィロストルギオスの年代記ではアフリカから送られた来たオウムを見たことに触れられている。また11世紀の教皇レオ11世はノルマン貴族によってベネヴェントに幽閉されていた時、何時間もオウムと遊んで、自身の名前を教えていたという。
12世紀にはヒバリやアトリと同様、貴族の中で親しまれていて、オウムに言葉やダンスや歌を教えることは娯楽の一つだった。13世紀イタリアの百科事典によるとインドから来た鳥であると考えられていた。
オウムを含む文鳥は窓辺に置かれた檻の中で飼われた。放し飼いでは猫などに襲われるリスクがあったためである。
14世紀に書かれたメナジエ・ド・パリには、乾かした麻の実を食べさせること、水は鉛の器で与えること、1日3回、新鮮な水にアザミの茎、ノボロギク、ハコベを入れた清潔な器と取り換えることが指示されている。
16世紀のジョン・スケルトンは詩の中でアーモンド、ナツメグ、ダーツ、クローブ、シナモン、麝香をオウムに与えていて、同時代のクレンボルフ伯はオウムに聖餐を与えたという。