詩人の想像力 (小林秀雄のベルグソン論から)
「どんなに妙に聞こえようと、悲劇詩人は他人の観察というものを、必ずしも必要としないというのが本当なのだ。」
「もし、詩人の創り出した人物達が、私達に生の印象を与えるのなら、それは、彼等が詩人自身に、複数化された詩人に他ならぬからである。」
(小林秀雄「感想」)
小林秀雄のベルグソン論を読んでいたら、上記のような文章に当たった。僕は小林秀雄を読み尽くした気がしていたのだが、やはり小林秀雄というのは改めて読んで、実に色々な可能性を孕んだ人物であると思う。この精神的宝物の集積を後に現れた僕らが利用しないのはもったいないと思う。
小林の言った事を自分なりに考えてみたい。小林秀雄がベルグソンに言及しつつ述べているのは、詩人(作家)がいかに世界を再構成するかという事だ。小林秀雄は、詩人は自らの内部を掘り下げる事によって、現実以上の現実を構成すると述べる。これに大して、現在の唯物論に染まった人間は、「小林秀雄は外部世界を忘れている」などと言う。これに対する批判は小林自身が答えているのでもう言うまでもないが、いつの時代でもこんな声はある。そうしてこの声は、詩人には雑音として、背景に後退してしか聞こえないだろう。
詩人はいつの時代でも自己に沈潜する事によって他者と面会する。という事は、絶えず、他者と表面的な交流をし、それ自体が「他者性」であると思っている人間はどんなに「妙に聞こえようと」、他者が存在しない、と言えるだろう。
小林の言わんとしている事をもっと広げて考えてみたい。例えば、世間一般では「女子高生」と「おじさん」は全然違う生き物とされている。これと同じ様に、「日本人」と「外国人」は全然違う生き物とされていたりする。言うまでもなく、この考え方は通俗的なもので、大衆性と一致する。ところでこれは詩人には通用しないし、このような分別をたやすく受け入れる詩人はそもそも詩人とは呼べないだろう。
小林は、詩人は、キャラクターを創造する、その際のキャラクターは、複数化された詩人だとイメージしている。複数化された詩人とはどのようなものか。
例えば、「おじさん」が書いた小説を「女子高生」が読んで感動するというのは、ありうるだろう。その逆でも構わないが、もっと言えば、何故、二千年前に書かれた作品に現在の我々が感動できるという事態が起きるのか。
考えてみよう。「おじさん」の年齢に入りかけている僕が、今の若い子に受け入れられようとして、若い子を観察して、それっぽい作品を作るとする。女子高生のノリをふんだんに入れたような。女子高生がそれを読む……その時に、薄ら寒いものが現れる可能性が一番高いが、ここはうまくいったとしよう。僕の偽装がうまく行ったと仮定して、彼等の賛同を得られると考えてみよう。しかし、このような賛同に何の意味があるだろうか。ユーチューバーに対する賛同と何も変わらない。そこでは、普遍性と呼ばれるものは、共感性や同意と一致されるとするが、その事は、彼等の社会風俗的な様式に、彼等の社会表面での薄い自己認識と一致するものとしてのみ理解されるに過ぎない。詩人が狙う賛同とはそのような性質のものではない。
小林はこんな事も書いている。
「シェイクスピアが、実際持っていた人格と、彼が持ち得たかもしれぬ人格とは違う。自分が持ち得たかも知れぬ人格を、彼が感じ得なかったとは誰にも言えまい。誰の人格も、日に新たな選択の結果である。私達の生きて行く途には、見掛けだけのものにせよ、分岐点というものがあるものだ。実際には、一つの道しか行けぬとしても、分岐する幾つかの道を歩く事が出来るとは考える。分岐点まで逆戻りして、その時、覗いただけですませた道を、果てまで歩いてみる、この精神の働きこそ、まさしく詩的想像力と呼ぶものである。」
こういう文章を曖昧なものとして退ける精神は、自己というものの奥深くを覗きこまなかった精神と言う事ができるだろう。問題は、詩人は、誰にでもなれる、という事ではない。詩人は特殊な人間であって、精神的仮面をいくつも考案して、誰にでもなれるという事ではない。そういう詩人の特殊性に目をつけるのであれば、何故そのような特殊な人間の生み出したものが、凡人である我々が理解したり感動できるのかというのが謎にならなくてはならない。我々は凡人のままに、モーツァルトに感動し、シェイクスピアに感涙できる。だが、これは通常考えられているより遥かに「豊かな」事態と言えないだろうか。
話をわかりやすくする為に、女子高生とおじさんの例に戻そう。僕がおじさんであり、僕の真反対にあるのが女子高生とか女子中学生だとしよう。僕は、彼等の歓心を得る為に、自分を変えなければならないのだろうか。彼等に賛同してもらう為に、彼等の中に自分の身を置いてみる……しかし、答えはそうではないだろう。何が言いたいかと言えば、そもそも我々の中に、女子高生とかおじさんとか、そういう社会的状況、物理的、現実的状況を越えた自己があって、それは普段隠されているが、シェイクスピアの作品のようなものに出会うと、そのような自己が刺激され、誘発される。そこで、我々は仮面を脱ぎ捨てて、いわば精神の場とでもいう場所でそれぞれに面会するのだが、そこで我々は自分の中には何か自分で想定してたものとは違う自己がいると知らされるのである。
詩人とは、まさにそのような自己に先鞭をつけた存在にほかならない。彼は、小林秀雄の言うように、深く自己を覗き込んだ存在である。自己の中に世界が、他者があるのであって、ただ自己を深く覗き込むだけで良い。だからこそ「悲劇詩人は他人の観察を必ずしも必要としない」。逆に言うと、詩人が他人を観察する時は、自己の内部の他者を発見する為の触媒として利用しているのであって、ただの他人、ただの自分、他人と自分とは違うというようなわかりきった考えでは優れた文学作品は生まれない。
優れた文学作品は常にはっきりした輪郭を持っているが、作者の言葉を聞くと曖昧に聞こえる事が多々ある。何故、彼はそのような作品を生み出し得たのか。その答えは、曖昧にならざるを得ないという所に作者の答えがある。我々が明確だと思っているものが曖昧に見えるほどに精神を突き進めたからこそ、詩人の言葉は曖昧になる。
小林秀雄は、人格を道に例えている。誰しもが一本の道を進む事しかできないが、そこから逆に遡行する事に詩人の想像力はある。これは、道から道へ飛躍する事を意味しない。様々なキャラクターを次々考案する事に詩人の想像力があるのではない。様々なキャラクターと呼ぶものが、我々が理解できるような「原ー存在」として感じられるからこそ、詩人はその「原ー存在」に遡る事ができる。
シェイクスピアのキャラクター、ドストエフスキーのキャラクターはある意味でみな、同じに見える。同じような語り方をしているように見える。彼等はキャラクターを「描き分けられなかった」のか。そうではあるまい。そもそも、我々がキャラクターとして分化させているものが、統一的な理念によって把握されるという事にこそ文学者の本懐がある。哲学者はこの観念をそのまま捉えるが、文学者はこれを分化させ、様々なキャラクターの織りなす劇として描き出す。
人間の内には、人間が思っている以上の人間がいるが、これは日常生活では隠蔽されている。誰しもが用意されている自分を自分と思いなして生きる。ところが、シェイクスピアやドストエフスキーを読むと、内的な自己が挑発される。どうやら自分はただ自分が思っている以上の自分だという事が知らず意識されるし、そういうものがなければ、我々凡人が天才の創作物を理解するのは不可能だろう。
我々は部分的にはシェイクスピアやドストエフスキー本人になってそれらの著作を読む。その時、我々はいかなる存在なのかと言えば、普通我々が我々と思っている存在とは違う生き物になっている。そうでなければああしたものは読めたものではないだろう。同じ時代、同じグループ、同質性と表面性の中に漂っていればいいというだけではないものがあるからこそ、ああした作品に出会う事ができる。我々は、異質な古典を読む事によって、間接的に精神の冒険を遂行しようとしている。シェイクスピアやドストエフスキーがその冒険を遂行し、その果てまで突き進んだ、それを真似るかのように。
詩人は日常生活から離脱するが、それによって一層、日常生活の奥深くにある我々自身を発見する。詩人は観念的だが、誰しもが深く自己を覗き込めば、現実的というより一層観念的であるからこそ、詩人の観念性は現実性と解されなければならない。詩人は、余人の知らぬ夢想をする存在ではなく、ただ世界をより一層力強く見つめた存在にほかならない。繰り返し、詩人や画家が訴えてきたこの言動も我々には夢想的に見える、と我々が言う時我々は果たして現実的存在なのか。現実とは数に変換されるものを信じるという事に他ならぬのであれば、それを信じている存在について考える事は果たして現実的か、観念的か。
「文学」とか「詩人」とかいったものが、小林秀雄の言うように、詩人の内部に一層深く沈潜する事により、彼の世界はますます内発的に、それを読むものにますます強固な現実性(感動性)を与えるとすれば、現状の文学は、日常生活との馴れ合い、社会機構に完全に組み込まれる事により詩人的なものとは似ても似つかないものとなっている。そこで、彼らは「詩的」なものを標語として上げるがやる事は、商業的な動作であり、彼等は文学を、詩を符丁としてしか使わない。彼等は社会に融和しているが詩からは疎外されている。彼等の内に詩人はいないが、詩人は自己の内部に深く潜り他者と出会う。だが、詩人と出会う他者もまた部分的には詩人であらねばならないだろう。
我々は詩の欠けた世界を生きているが、それは現実に詩という趣味的な造花が欠けているという事を意味してはいない。我々は単に、詩人を欠いた貧しき現実世界を握っているという事の他は意味していない。我々は貧しい世界を日々作り上げ、肯定し、自分達を称賛し、文学を余計な役立たぬものとして見る事によって自分を貧しくしているが、今このように「貧ー富」の基準そのものがない以上、僕の言葉も宙に浮くほかないだろう。
それでも人間の中の人間は止む所なく運動していき、それを詩人が解放してくれるのを願って歴史の中をうねっていくだろう。我々は、誰も彼もがはしゃいでいる廃墟のような世界にあって、何も確実に握る事ができない。そこで自己を忘れ、世界と一致する事によって時間を忘れようとする。そうして時間から疎外される。
時間は我々の外部にあるのではなく、内部にある。こういう言葉も観念論として片付けられるのだろうか。詩人が現在いるとすれば、自らの孤独の中に世界を見るに違いない。そうしてその世界はこの現実世界よりも遥かに巨大である。僕は、文学を礼賛するつもりもなければ、芸術を賛美して、他人にわからせる気もない。
ただ、シェイクスピアの作った空間はこの現実世界よりも遥かに巨大だと確信しているにすぎない。この観念が他人から見て、芸術擁護者に見えようとそれは僕の預かり知らぬ事だ。僕にとってそれは「当然」の事実だ、というのは僕は自らの内部を覗き込んで言うのである。誰しもが自らの内部を覗き込めばそう得心するだろうと僕は思っている。本当に覗き込む事があればの話だが。
詩人の内面は世界を包み込むが、それは自らの内面の中に映った世界を見た者だけが感得できる場所だろう。現在にそのような芸術空間はないが、そういう空間は欲されてはいるだろう。我々は既に、客観、現実世界に疲れ果てている。内面は現実からの逃避ではなく、現実を深く認識する為の道具である。世界は自らの内面にある、という言葉を、詩人は洒落た言葉としてではなくごく当然の真理として信じなければならない。それほどまでに自己の内部に深く食い込まなければならない。
しかし、この混乱した現在にそんな事が可能だろうか。それはわからないが、そのような道筋はあるだろう。世界よりも、「私」の内部の方が大きいのだから、世界の混乱は私に統御可能である、と僕は考えている。それが僕を詩人に導くかはわからないが、とにかく僕はそのように考えている。考えようとしている。