落ち着かない気持ち
処理の終わった書類を整理していたレジーナはノックの音で顔を上げた。返事をすれば、ブルースが入ってくる。
「レジーナ、ちょっといいかい」
「もう出かける時間ですか?」
ブルースの出かける支度を済ませた姿を見て、時計を見る。今日の夜から仕事の付き合いで泊りがけで出かけると聞いていたが、出かける時間には少し早い。
「ああ、事前に話し合いたいことがあると言われていてね」
ブルースはレジーナの問いにそう説明すると、レジーナの方へと歩み寄る。ブルースは懐から一枚の封書を取り出した。
「レジーナ宛の手紙だ」
レジーナは誰からの手紙かを逡巡しながら、受け取った。
封書の裏には差出人が書いてあり、その名前を確認すると思わず笑みがこぼれた。夜会を巡り、様々な人を介して手に入れた伝手だ。ようやく調整が終わったようだ。
これを手に入れるために、嫌いな夜会を頑張った。付き合いのある商会を巻き込んでいるため、調整にも時間がかかった。
「お祖父さまが出かける前でよかったわ」
ブルースはレジーナの嬉しそうな顔に思わず頬を緩ます。
「時間がそんなに取れないんだ。日程だけ教えてくれないか」
「ちょっと待って」
レジーナは慌ててペーパーナイフを手にすると、封書を開く。文面に目を落とし、何度か内容を確認する。
「日程はどうだ?」
「明日です。急なのだけど、その後また隣国に旅立ってしまうようで」
「忙しい方なのだな」
「人気の方ですから。でも、時間を使う価値はあると思います」
レジーナが会いたかった人とは、隣国で農作業の効率化の研究をしている人物だ。隣国の研究室に所属しているが、様々な案を実際に使ってみてきっちりと効果をまとめている。地味な研究なので価値を見出さない人も多いが、オルコット伯爵領は農地が多いので貴重な情報だ。
今、国で主流になりつつある農具ではオルコット伯爵家の領地では使い勝手が悪いので、改良してもらえないかとお願いするつもりだった。
研究者であるので変わった男性だともっぱらの噂だが、それでも研究報告書を見ている限り合理的な人だ。
ちょっとした変更も本人が納得すれば対応してくれると聞くので、是非とも会ってみたい。
「そうか、どうするかな。私も今から屋敷を留守にするのだが……私の方の約束を延期してもらうか」
ブルースが心配そうに顔を曇らせて、そんなことを言い出す。レジーナは過保護な祖父に少しだけ呆れた。
心配してくれるのはとてもありがたいが、そろそろ独り立ちをしていかないといけない。今回会う研究者は女性蔑視の男性でないのだから、一人で交渉してもいいと思うのだ。
「お祖父さま、わたし一人でも大丈夫ですから」
「だが……」
「お祖父さまのお約束も重要なものでしょう?」
「わかった。では、せめて付き添いを連れていけ」
やはり一人では心配なようだ。迷いながらもブルースが一緒に行くと言わないのだから、進歩かもしれない。付添人もレジーナの知っている貴族の誰かだろう。
「お祖父さまがそれで安心できるなら」
そう了承した。
「では、私はもう出かけてしまうが、もし何かあれば遠慮なく連絡をするように」
「わかっています」
心配性のブルースを無理やり部屋から追い立てた。
「本当にお祖父さまは心配性なんだから」
レジーナはふうっと息を吐いた。ブルースがあれほど心配するのはレジーナが女性で、未だ婚約者がいないからだ。一人で行かせて、望まぬ関係を結んでしまうとレジーナの名誉は地に落ちる。ただでさえ、オルコット家は両親の死で注目を集めている。少しのことでも社交界に一気に広まるだろう。
この国の制度で、女性には爵位の継承権はない。男性が爵位を継ぐと決められたこの国は一夫一妻制であるため、子に恵まれない家は愛人を持つ。そして跡取りとなる男子を確保するのが一般的だ。
オルコット前伯爵夫妻には娘二人しかいなかったが、継承権をレジーナの母であるレイチェルが持っていたため、どんなに父のジェッドが愛人を持って子を産ませても継承権どころか貴族にもなれない。
他の家でもそういう貴族家も多い。生まれないだけではなく、病死や事故死など色々な要因がある。大規模な戦争はここ数十年行われていないが、他国との小競り合いが頻繁に起こる辺境地ではやはり戦死もありえる。
だからレジーナだけが特別な状況にあるわけではなかった。女性だけしか残らなかったという貴族家はそれなりにあるのだ。
大抵は家同士のつながりを求めて結婚し、婿入りした夫が領地まで丸ごと面倒を見るか、自分で切り盛りしているが契約など女性では足元を見られるような場合のみ、夫に立ち会ってもらうようにするかだ。
女性一人でやろうとすると、よほどの信頼関係がない限り難しい。レジーナも実務を担当していても、最終判断はやはり祖父のブルースが行っており、契約の場所には連れて行ってくれるがおまけ程度の扱いだ。
それでも長い付き合いのある商会や貴族家では今のところは問題ない。問題になるとしたら、世代交代したときになる。新しい代表が同じように付き合ってくれる保証はない。
男社会に女性が出てくるのを生理的に嫌悪する人間は男女ともに一定数いる。これはきっとレジーナが生きている間に改善されることはない。意識というのはそう簡単に変わらないものだ。
憂鬱な思いを振り払うように首を左右に振った。
とにかくブルースの許可は貰った。明日は初めて一人での交渉だ。
初めてのことでふわふわとしたつかみどころのない気持ちと、不安な気持ちが混ざり合う。それでも嫌だとは思わないのだから、不思議なものだ。
今はこの半端な気持ちがとても大切に思えた。
******
「こんにちは。レジーナ嬢」
「……どうして」
にこにことしている男の顔を睨みつけた。レジーナが出かける準備をして玄関ホールで待っているとやってきたのはランドルフだった。ランドルフは夜会の華やかな意匠ではなく、黒のズボンと上着を着ていた。上質な布で仕立てられた簡素な服はランドルフの整った容姿をかえって際立てた。
落ち着かない気分になり、そっと彼から視線を逸らす。
「オルコット伯爵から頼まれたんだよ」
「お祖父さまったら」
ブルースの狙いがなんであるか、気が付いたレジーナは憮然とした。姉はべインズ伯爵をレジーナの結婚相手として勧めているが、ブルースはランドルフを後押ししているのだ。余程、前に話したときに気に入ったようだ。ブルースがレジーナに消極的だが男性を近づけるのは初めてで、戸惑いもある。
これを機に距離を縮めてほしいブルースの思惑に、文句を言う先がなくてレジーナは唇を噛みしめた。
悔しくてきゅっと強めに唇をかみしめると、ふわりと唇を撫でられた。驚いて視線を上げれば、いつの間にか間近に彼がいる。心配そうな顔で覗き込まれて、レジーナは固まった。
「そんなに強く噛んだら傷ができる」
「気にしないで。それよりも一人で大丈夫だから、帰ってほしいのだけど」
レジーナは落ち着かない気持ちを隠すようにランドルフにぶっきらぼうに告げた。ランドルフはレジーナの反応を想定していたのか、小さな笑みを浮かべた。
「それはできない。その研究者、レジーナ嬢は初めて会うんだろう?」
「そうだけど」
「僕は口を挟まないよ。交渉は大人しくしていると約束する。契約内容の時だけ、確認させてもらうよ」
契約内容だけ、と聞いてああ、とレジーナは納得せざるを得なかった。研究者と会えるのは今日しかない。一度家に持ち帰って契約書を確認すると時間がかかる。そのため、王宮でも文官を務めているランドルフに内容の確認をお願いしたのだ。
オルコット家の人間でもよかったが、我が国の法だけではなく隣国の法もきちんと知る人間となると、外に頼むしかなくなる。その意味ではランドルフにお願いしたのはいい選択だ。
「本当に交渉には口を出さない?」
「もちろん。これはオルコット家の取引だし、僕は契約内容の確認をするのが仕事だ」
レジーナは戸惑った眼差しをランドルフに向けた。レジーナが避けていたので、仕事に対するレジーナの姿勢を見せたことはなかった。夜会で会うときは、婚約を申し込まれている女性として扱われていたし、男性の会話の中に自分から入ったことはない。
ランドルフはレジーナの戸惑いに思い当たったのか、言葉を補足した。
「直接知らないけど、色々なところで話は聞くからね。レジーナ嬢の評判は非常にいい」
「……色々とはどこで?」
「教えない。それは僕の楽しみだから」
何とも言い難い答えに、レジーナはため息をついた。
「ほら、時間になってしまう。行こうか」
仕方がなくレジーナは彼の手を取った。ランドルフは緩くレジーナの手を握る。今までも夜会で何度もエスコートされているにもかかわらず、大きな手だと初めて意識した。