姉が出戻ってきました
「もう、嫌になるわ!」
読んでいた手紙を乱暴に机の上に置いた。それを見ていた祖父のブルースはやれやれと息を吐く。
「貴族院からの返答など早々にかわるものではない。そうカリカリするな」
「だって……!」
不満げに唇を尖らせば、ブルースは孫娘を宥めるように優しい笑みを浮かべた。どんどん膨れ上がる苛立ちを抑えるために大きく息を吸った。
「お前の希望は簡単なことではないことはわかっていただろう?」
「そうだけど」
この国は基本的に男性が家督を継ぐ。貴族法でもそれは定められており、女性が家督を継ぐことはできない。継承した領地の権利は女性が持っているが、爵位は結婚した夫に与えられるのだ。
複雑な事情をオルコット家は抱えていた。一度は娘夫婦がブルースから家督を継いでいた。その後、二人が亡くなり、継承権は子供であるレジーナと姉のフィオナに移った。ただ当時は幼過ぎたため、暫定処置としてブルースが伯爵位を預かっている状態だ。対外的にはブルースがオルコット伯爵とされているが、正確には代理となる。
子供がいない場合は、ブルースに伯爵位が戻され、養子を取るなり新たな子を設けるなりする。それができなければ、国への返還となるのだ。
男子が家督を継ぐ文化が長い年月をかけて複雑なものになっていた。この国の愛人文化も男子に家督を継がせるために生まれた文化だ。
レジーナは結婚するつもりがないから、跡取りになる養子をとり後見人を務めさせて欲しいと嘆願しているのだが、なかなかいい返事は来ない。
貴族法に従って、婚約するか結婚しろと言われるだけだ。特例で国王が認めてくれれば話は通るのだが、我が家は良くも悪くもない伯爵位。国王に直談判できるほどの力は持っていなかった。
レジーナも認められない理由を理性では理解しているものの、貴族院の事務的な回答にムキになって同じ内容の文面を日付を変えて提出していた。こんな不毛なやり取りを15回も繰り返していた。
いい加減切り捨てられてもおかしくないのだが、この家の事情を知っているから強く突っぱねられないのだと思う。
「私はお前が養子をとろうが、結婚しようがどちらでもよいと思っているよ。もちろん嫁に行きたいというのなら、それでもいい。大事なのはお前が誰よりも幸せになることだ」
諭すような言葉にレジーナは思わず唇を噛み締めた。ブルースはレジーナが継ぎたいと望んでいるから認めているだけであって、どうしても継いでもらいたいという気持ちはない。後継者がいないのであれば、国へ爵位返上をすればいいだけの話だ。
「お祖父さま」
「ランドルフ・アクロイドは他の求婚者に比べて気持ちのいい青年だと思うがね」
「どうしてその名前を……」
ランドルフの名前が出てきて息を飲んだ。レジーナの反応に、ブルースは顎髭を撫でながらニヤニヤしている。
「この間、たまたま出会ってな。少し話をした。面白い青年だと思うよ。お前と結婚しても主導権はお前に持たせたままでいいと言っていたな」
それってたまたまじゃないでしょう。ランドルフの人当たりのいい笑顔を思い、怒りが湧いてくる。レジーナに言い寄るだけでなく、ブルースにも接触しているなんて信じられない。同時にブルースがレジーナに結婚を勧めてくる現実に心が傷つく。
「彼にはすでにお断りしています」
「お前はそう言うと思っていたよ。ただあの青年は今まで釣書を送ってきた輩と比べてよほどいいと思っている。お前を結婚させなければいけないのなら、彼を選ぶだろう」
「お祖父さま……」
貴族令嬢が結婚する年齢は大体18歳ぐらい。婚約を含めれば早い令嬢なら12、3歳ぐらいで縁を結んでいる。
レジーナは19歳だ。ブルースとしてはレジーナの気持ちに寄り添ってくれていても、心のどこかで結婚して女性として幸せになってほしいと願っている。ブルースの気持ちもわからなくはないけど、レジーナが結婚したくない気持ちもわかってほしい。
先ほど机に投げた手紙に視線を落とす。
ブルースは無理強いはしてこないが、そろそろ覚悟を決めた方がいいのかもしれないとレジーナは憂鬱に思った。
「失礼します」
重苦しくなった空気の中、軽やかなノックの音と共に入ってきたのは老家令だ。彼は丁寧に頭を下げてから部屋に入ってくる。
「バーニー、どうかしたのか?」
「フィオナお嬢様がご到着されました」
フィオナと聞いて思わず立ち上がった。信じられずに家令をまじまじと見つめる。
「お姉さまが帰ってきたの?」
「はい。さようでございます」
「今どこにいる?」
ブルースが聞けば、バーニーは困ったような顔をした。
「応接室の方へお通ししておりますが……」
「なんだ、はっきり言うがいい」
珍しく言いよどんだバーニーにブルースが促した。
「それが、お嬢様はべインズ伯爵と一緒にいらしております」
べインズ伯爵と聞いて、昨夜のことを思い出した。昨日今日のことだ。べインズ伯爵はレジーナのことを覚えているだろう。ランドルフの揶揄うような言葉を思い出し、頬が染まった。
「そうか。挨拶が必要だな」
ブルースがレジーナに無言で促した。どうしても彼と顔を合わせたくなくて、レジーナは適当な言い訳を口にした。
「え、でも。べインズ伯爵がいらっしゃるなら」
「フィオナが一緒なんだ。あの子が迷惑をかけてわざわざ送り届けてくれたと考えるのが普通だろう」
呆れたように告げられてそれもそうかと納得する。フィオナは何故かどこに行っても問題を引き起こすのだ。本人には困らせるつもりがないと思うのだけど、彼女の行動は結果的には厄介事につながることが多い。
「……お祖父さま。べインズ伯爵の手を煩わせたことよりも、お姉さまが嫁ぎ先から連絡もなしに里帰りしてきたということが一番問題ではないかしら?」
ブルースがため息を付いた。二人して沈黙した。
「例えば」
「言わなくていい。わかっている。わかっているから大丈夫だ」
何が大丈夫か全くわからない。ただブルースは自分自身を納得させるように大丈夫だと繰り返し呟いていた。呟くブルースの顔色は悪く、今にも倒れそうだ。頭の中ではあらゆるまずい状態を想像しているはずだ。レジーナもフィオナに会うのが恐ろしいと内心震えていた。
「ここであれこれ考えても仕方がない。行こうか」
覚悟を決めて二人揃って無言で応接室に向かった。廊下を歩いていると、反対から背の高い男性が歩いてくる。
「べインズ伯爵」
ブルースが声をかけた。彼は堂々としていて立派だ。彼は目の前まで来ると足を止めた。
「オルコット伯爵。お元気そうで何よりです」
「君も元気にやっているみたいだね」
親し気に会話を交わすのを見ていて、不思議に思った。ブルースが彼と親しいなんて聞いていなかったのだ。ブルースがさり気なく、本当にさり気なく孫娘のことを聞いた。
「ところでフィオナを助けてくれたようだな。ありがとう」
「いいえ。たまたま通りかかった時に具合が悪そうだったので、こちらへお送りしたまでです」
具合が悪そうなのを送って、と聞いて内心ほっとする。何故一人だったのか、馬車はどうしたのかなどといった疑問が色々あるが、とりあえず具合が悪そうな姉を保護しただけだと知って力が抜けた。ブルースもそう思っているのか、先ほどよりも明るい表情になっている。
「後日、改めてお礼に伺おう」
「いえ、必要ないですよ。お気持ちは今、十分もらいましたから」
何でもないことのように告げて、彼はブルースの後ろに立つレジーナを見つめた。
「レジーナ、挨拶を」
じっと見つめられて、レジーナは居心地が悪くなった。昨夜のことを持ち出すわけでもなく、とても礼儀正しい。ただ視線の熱量だけが不可解だった。見定めるようでもなく、馬鹿にしたようなものでもなく。内心不思議に思いながらも、一歩前に出るとゆったりとお辞儀をする。
「はじめまして。レジーナです」
「エドマンド・べインズです。よろしく」
「おや、レジーナは覚えていないのか? 小さい頃、よく遊んでほしいとせがんでいたのに」
ブルースはレジーナの挨拶に驚いたような声を上げた。レジーナはブルースの呟きに目を瞬いた。
「ええ?」
「べインズ伯爵家とは昔から親しい付き合いをしていてね。お前が小さい頃は時々来ていたのだが」
正直に言えば、覚えていない。
レジーナはどうしたらいいのだろうと視線を彷徨わせた。
「オルコット伯爵、それぐらいで。フィオナ嬢も覚えておりませんでしたから」
「フィオナもか。困った子供たちだ」
ブルースはやや呆れたように呟く。
「ずいぶん昔の話ですから。それに私もお二人を街で見かけてもきっとわからなかったと思います」
「そうか、そうかもしれないな」
ブルースは納得したように頷く。
「それでは私はこれで」
「レジーナ、お見送りをしておくれ」
「見送りは必要ありません。フィオナ嬢に早く会ってあげてください」
エドマンドは礼儀正しく断りを入れると玄関へと向かった。
二人はその後ろ姿を見送ってから、応接室へと入る。応接室に入れば、長椅子に姿勢よく座っている婦人がいた。上品な色のドレスを身に纏い、ゆったりとした様子でお茶を楽しんでいる。
「お姉さま?」
声をかければ彼女は顔を上げた。華がほころぶような笑みが眩しいが、それどころではなかった。
「嫌だわ。二人してどうしたのよ? 悪魔に会ったような顔をして!」
そこにいたのは3年前に他国に嫁いだ姉であった。3年前、隣国へ留学した姉は運命の出会いをして結婚した。嫁ぎ先は隣国の隣国なので、早くても馬車で1カ月はかかる道のりだ。嫁ぐときに彼女の夫となる公爵がこちらへ訪問したが、手紙が1年に何通かあるだけであった。
彼女は立ち上がると、レジーナ達の方へと歩み寄った。
「うふふ、レジーナも久しぶり!」
「お、お姉さま」
楽し気に近寄ってくるフィオナを愕然として見つめた。
「あ、驚いた? 事情があって色々誤魔化そうと思っていたら、こうなってしまったの!」
どんな事情があればこんなにも太れるのだ。顎のラインが崩れ、顔もパンパン、腕は……ふわりとした袖で隠されていてわからないが、手の甲がふっくらしているので華奢ではないはずだ。ウエストから広がる柔らかなドレープのドレスが姉の変わり果てた体形を強調している。
衝撃的なのはウエストが食い込んでハムのようになった腹だ。何重になっているのかわからない。コルセットでも平らにならなかったなんて声も出ないほどの驚きだ。
華奢で出るところは出て縊れるところは縊れていた、社交界でも薔薇の花にたとえられるほど美しかったフィオナが、今は無残にもあらゆるところがだぶついていた。
唯一の救いは、それだけ丸くなっていてもフィオナらしさは全く失われていないところだ。
「もう、向こうの食事は美味しくて! しかもやることがないでしょう? 自然と食べることが趣味になってしまったの」
「そ、そう……」
何とも言えなくて、フィオナの楽しそうな話に相槌を打つしかなかった。