考えられる限りの最悪
ランドルフは職場の同僚からその噂話を聞いて、唖然とした。
「本当に?」
「本当だ。夜会会場の隅だったが、周囲にはそれなりに人はいるし、聞こえないように配慮していたとは思えない」
「ちょっと待て。理解が追いつかない」
ランドルフはぐりぐりと自分の眉間をもみほぐした。ここはランドルフの勤める王宮の職場だ。休憩に誘われ、職場の談話室に入るなり同僚が教えてくれた噂がどうにも飲み込めない。同僚は気の毒そうな眼差しを向けてくる。
「ほら、まず茶を飲め。落ち着いてからの方がいい」
「逆に落ち着かないんだが。というか、まだこれ以上の話があるのか?」
同僚の気遣いに、ランドルフは顔が引きつった。
「あるというのか、さらに続きだ」
「……続き?」
ぽつりと同じ言葉を繰り返す。同僚は自分のカップを持った。
「もったいぶっているわけではないんだが、その、オルコット伯爵令嬢にサイムズ子爵令嬢が愛人として認めろと迫った後、自分用の別邸を用意しろと言っていたそうだ」
「うっ……」
胸が苦しくなってきた。その上、ぐっと胃が圧迫され吐き気までしてくる。前屈みになり胸を押えた。
「だからサイムズ令嬢との恋仲だと言う噂が流れた時、放置はよくないって忠告したろう?」
「そうだったな。だが、彼女とは数年、会ってもいないんだ。根も葉もない噂だ。普通ならすぐに消える話じゃないか」
ダリアとの婚約話はアクロイド侯爵家から一度も口にしたことはない。ダリアが勝手に希望を述べていたにすぎない。サイムズ子爵夫妻と嫡男は己の立場をきちんと理解していたので、アクロイド侯爵家との結婚はないと考えていた。当然、当主同士ですり合わせているので、婚約自体成立しない。
「女の思い込みは怖いからな。それでも普通は相手になるはずの男に縁談があるのなら気がつくとは思う。お前はオルコット伯爵令嬢の隣で威嚇しまくっていたしな。お前の気持ちがどこにあるのか気がつかない方がおかしい」
「他に……他には何を言っていた?」
とんだ被害だな、と慰める同僚にランドルフは顔色を悪くしながら詳しく教えてほしいと伝えた。
「ああ、後は。月の半分はお前を通わせてやるとか言っていたとか」
「最悪だ。何故、愛人の方が立場が上なんだ」
そう呻けば、同僚は肩をすくめる。
「お前に愛されているのはサイムズ子爵令嬢の方だと思っているからじゃないか?」
「何故こんな勘違いを」
「幼馴染の侯爵家の3男が幼い頃から優しくしてくれていたらそうなるかも」
ランドルフは信じられない思いで同僚を見つめた。
「彼女が社交界にデビューした後、一度も会っていない」
「社交界デビューとの時は踊ったのだろう? その時に特別感があったんじゃないのか?」
「踊ったと言っても、俺は一人目じゃない。俺もその後、何人ものデビュタントと踊っている」
ますますダリアの異常さが浮き彫りになって、青ざめた。
「もう一つ。お前にとっての打撃がある」
「……」
早く言え、と無言で促せば同僚は苦笑いした。
「その窮地を救ったのがべインズ伯爵だ」
「べインズ伯爵」
思わぬ人物に呻いた。
「べインズ伯爵、オルコット伯爵令嬢に気があるみたいだ」
「やっぱりそう思うか?」
「ああ。しかも今回、窮地を救ったからオルコット伯爵令嬢としても気持ちが傾いても仕方がない」
全く持ってその通りで、ランドルフは落ち込んだ。唯一の救いはレジーナが結婚する意志が弱いことだ。確かに気持ちはぐらつくかもしれないが、レジーナが自分の両親のことを整理しきれていない。そのため、エドマンドとすぐにいい関係になる心配はしていなかった。それでもランドルフがエドマンドに遅れをとったことは間違いないのだが。
「謝りに行った方がいいか」
「謝るというのか、きちんと彼女との関係を説明した方がいいのでは?」
ランドルフの小さな呟きを拾い上げて、同僚は助言した。
「それもそうだ。噂で聞くよりも、俺の口から説明した方がましか」
「もっとも、男のくだらない言い訳と切り捨てられる可能性もある」
ズバリと言われて、ランドルフは地の底まで凹んだ。
「た、立ち直れない」
「大体、可能性があるならこんな事態になる前に説明しておいた方がよかったんだよ」
「まだ恋人にもなっていないのに、説明するのは変じゃないか」
どんよりと落ち込みながら反論する。
「お前、本当にオルコット伯爵令嬢が好きなんだな」
「好きでなければ口説かないよ」
「確かに彼女は綺麗だしな。伯爵家の相続人というのも魅力的だ」
それだけではないのだが、ランドルフはそれ以上は言わなかった。ランドルフも初めからレジーナを好意的に見ていたわけではない。まだ彼女を知らない時は、気の毒な令嬢だと思っていた。
そんなレジーナが気になりだしたのは彼女の涙を見た時だった。男たちの好奇の目にさらされながらも、しゃんと前を見て立っていたのに、少し離れた場所でレジーナは一人静かに泣いていた。それなのに、もう一度人前に出ると何もなかったかのように立ち振る舞う。
必死に自分で立とうとする姿がとても美しかった。
レジーナの魅力はランドルフだけが理解していればいい。そんなどこか独占欲を滲ませた感情を持ちながら、話題を変えた。
******
仕事が終わり、屋敷に帰ると部屋で着替えをする前に真っ先に居間へと向かった。今は両親と長兄がくつろいでいる。次兄は騎士団に入っているため、寮暮らしだ。ランドルフは挨拶もそこそこに、父親に相談を持ち掛けた。
「食事の後、執務室へ来なさい」
ランドルフの相談がわかっているのか、特に詳しく聞くことなくアクロイド侯爵は頷いた。長兄も苦笑いをしているところ見れば、相談内容がわかっていることは疑いようもなかった。
「困ったことになったわね」
そんなことを呟いたのは母親だ。呆れたような顔をしているところ見れば、社交界ではすっかり広まってしまっているのだろう。後手になってしまったことを落ち込みながら、母親の憐れむような眼差しを避けた。そんな息子の態度に、ふふっと笑いを零した。
「どうにかするのが男でしょう? 気張りなさい」
「わかっています」
どうにか返事をして、着替えるために自室へと向かった。
口数少なく食事を済ませ、父親と長兄と一緒に執務室へと移動する。
「座りなさい」
長椅子に腰を下ろす。
「サイムズ子爵にダリア嬢の勘違いを正してもらうようにお願いしたいのです。僕が直接言ってもいいのですが……ちゃんと聞くとは思えない」
「ダリアか」
長兄がため息をついた。ダリアの執着は幼い頃から垣間見えていた。いつの頃からか、サイムズ子爵家の二人の子息が遊びに来る時に必ずついてくるようになった。その時にランドルフが遊び相手となっていた。
幼いころから盲目的にランドルフを慕うダリアであったが、その気持ちを両家の当主が汲むことはなかった。
二つの家には婚姻による繋がりは不要であるし、なによりもランドルフの気持ちがダリアにはなかった。どちらかというと避けていたのに、ダリアの方がランドルフを見つけては、つきまとっていた。
12歳になって学園の寮に入った時にはほっとしたものだ。それ以降、顔を合わせないように注意してきた。
「ダリアは男爵家に嫁ぐ予定ではなかったのですか?」
「そう聞いている。お前の愛人だと吹聴しているところを見ると、破談になったのか、したいのか」
ランドルフは顔を歪めた。
「お前はダリアとそういう関係には一度もなっていないんだよな?」
長兄の質問にランドルフは頷いた。
「変な期待を持たせるようなことはしていない。そもそもデビューの時に踊った後、夜会でも他の時でも顔を合わせていない」
「ランドルフ、ダリアの件もそうだが、オルコット伯爵令嬢とはどうなっているんだ?」
父親の問いかけに、ランドルフはずんと落ち込んだ。
「かなり気持ちを許してもらえていたと思います。オルコット伯爵にもレジーナの気持ち次第だと言われています」
「今の状況は彼女にとって辛いだろうな。下手をしたら会ってもらえないかもしれない」
長兄がため息をついた。オルコット家の悲劇とも言われたレジーナの両親の殺害は貴族社会を揺るがすほどの出来事だった。過去において、愛人が本妻とその夫を殺害する事件はなかった。オルコット伯爵夫人が子供たちを守るために命を落としたと言うのだから衝撃はすさまじかった。ランドルフはまだ13歳だったが、それでも当時を思い出せるほどだ。
ランドルフが侯爵家の力を使って強引に話を進めなかったのは、結婚後にもレジーナときちんとした関係を築きたかったからだ。
「う……。兄上、言いにくいことを言いますね」
「期待した方が辛いだろ」
「ランドルフがオルコット伯爵令嬢と結婚したいと言ったから保留にしておいたが」
父親は顎と撫でながら、一枚の書類を出してきた。その書類を見て、ランドルフは眉根を寄せた。驚きに声を上げたのは長兄の方だった。
「父上、それは」
「もし、お前が選ばれなかったら受けてもらえないか」
「……振られて逃げるようで嫌です」
「逃げじゃない。そもそもお前に受けてもらいたかった話だ」
そこには隣国への視察要望が書かれていた。