心の底にある気持ち
フィオナは言葉を失ってしまったレジーナを見て、痛まし気に目を細めた。
「ごめんなさい」
「お姉さま、それは何に対しての謝罪?」
フィオナがオルコット家の跡取りとしての義務を放棄してしまって一番しわ寄せがあったのはレジーナだ。貴族令嬢としての教育しか受けてこなかったレジーナが突然オルコット伯爵家の跡取りとなったのだ。知らないうちに立場が変わり、求められるものが変化する。
しかもレジーナは両親の死を上手に消化することができていなかった。心に残っている瑕は癒されることなく、今でも覆い隠している状態だ。
フィオナも両親の死をなかなか処理することはできずにいた。この国で過ごしていた時はレジーナを気にしながらも、気持ちに余裕がなかった。
跡取りとしての役割と両親の死に対する受け止め方に潰れそうになっていた時、ブルースが勧めたのが他国への留学だ。しかもこの国とは違い、愛人文化のない国だ。
勧められてすぐに留学した。ずっと逃げたいと思っていた。そして留学先で出会ったのがクラークだった。彼に恋をして、色々なものを学んだ。慌ただしい毎日だったが、充実していた。両親の死を冷静に受け止められるようになったのもこの時だ。クラークの存在がとても大きかった。
普通ならオルコット伯爵家の跡取りである自分が他国に嫁ぐことは難しかっただろう。だが意外にもブルースは一通りフィオナの気持ちを聞いただけで許可した。あまりにもあっさりと許可してくれたので、フィオナは逆に心配になったほどだ。
「貴女にすべて押し付けてしまったから」
「……確かに初めの頃は大変でした。でも、わたしは跡取りという立場を手に入れられたことはよかったと思っています」
「大変だったのに?」
フィオナが驚きの声を上げた。レジーナはうっすらと笑う。
「オルコット伯爵家の跡取り、という立場があったからこの年まで結婚しなくて済んだのです。予定通りにお姉さまがこの家を継いでいたら、わたしはもっと早く結婚を考えなくてはいけなかった」
「レジーナ。アクロイド様とのことではなくて……結婚をどう考えているの?」
「結婚は」
レジーナの言葉は続かなかった。レジーナは瞬きもせず涙を落とした。涙を見せたくないのか、俯いてしまう。
「レジーナ」
フィオナは立ち上がると、レジーナの隣に座る。レジーナの手からカップを取り上げ、テーブルに置いた。そして妹の両手を自分の手で包み込むように握りしめた。
「家のことは気にしなくていいのよ。貴女はまだこれだけ傷ついているのだから、結婚だって考えなくてもいい」
「でも」
「大丈夫よ。きっとお祖父さまは貴女に幸せになってもらいたいと思っているはずだから」
茶化すように軽い口調でレジーナの反論を封じる。レジーナは今まで頑張ってきたことが急に大したことではないように感じて体を震わせた。頑張らなくてもいいのなら、いてもいなくても同じことではないかと思えてきた。一度考えてしまえば、今までの自信がぐらついてくる。
妹の気持ちの揺れを感じたフィオナは優しく優しくいい聞かせる。
「レジーナはオルコット伯爵家を継ぐのに相応しいわ。ただ、女性である事だけが欠点なだけなのよ」
「本当に?」
「本当よ。貴女は男性社会の中でよくやっているわ。まだこの国は女性は対等ではないから、仕方がないのよ」
どこか冷めた口調でフィオナが応じた。いつも朗らかな姉が見せた冷ややかさにレジーナは目を瞬いた。
「お姉さま?」
「ふふ、ごめんなさいね。なんでもないわ」
「でも」
「涙、止まったわね」
レジーナの目は潤んでいても、先ほどまでのような大粒の涙がないことにフィオナはほっと息をついた。
「貴女は何でも考え過ぎよ。しばらく王都を離れて、領地でゆっくりしたらいいわ」
王都を離れなさい、と言われレジーナは小さく頷いた。レジーナ自身、少し気持ちを整理した方がいいと思っていた。それには噂や色々な情報が手に入る王都ではなく、静かな領地の方が気持ちが落ち着く。
「ついでに視察していきます」
「……仕事は忘れて」
「仕事を放置しても、結局はわたしがやることになるので」
レジーナの真面目さにフィオナが顔をしかめた。
「本当に真面目ね。誰に似たのかしらね」
「エリーゼ様にはお会いした方がいいかしら?」
「わたしから説明しておくから、会わなくても大丈夫よ」
フィオナはレジーナの代わりを引き受けた。まだ気持ちの整理が付かないうちにエリーゼに質問攻めにされるのは辛いはずだ。
エリーゼやモニカのように母であるレイチェルの友人たちは心配してくれているのはいいが、時には強すぎる権力で物事を進めがちだ。今はまだレジーナをそっとしておいてあげたかった。
「お姉さまは一緒に領地に来ますか?」
「わたし? わたしは王都に残っているわよ。もう出産間際まで予定が入っているの」
フィオナは当たり前のように予定を口にした。レジーナは不審そうに姉を見つめる。
「予定? 妊婦なのにそんなに出歩いているの?」
「嫁ぎ先でも茶会はあったけど、やはり信用できる友人たちとの茶会は楽しいわ」
フィオナの友人たちはそれなりの貴族家に嫁ぎ、貴族夫人として活動している。フィオナが跡取りとして社交をしていた頃に縁を繋いだ人たちだ。かなり癖の強い女性ばかりで、貴族夫人としては素晴らしい教養を持っている。レジーナの今の交友範囲もフィオナが築いたものも大きかった。
「レジーナはアクロイド様の方が好きなのね。べインズ伯爵の方が落ち着いていていいと思っていたけど、こればかりは仕方がないわよね」
「……どうしてそんな話になるの?」
「あら、だってべインズ伯爵に結婚相手ができたと聞いても何とも思わないでしょう?」
フィオナが問えば、レジーナは首を傾げた。エドマンドから妹のような存在と言われてから、結婚相手としては見ることはなかった。だからフィオナの問いも的外れなものだ。
「おめでたいと思うけど……」
「それが答えよ。なんだかんだと言い訳しても、躾の悪い猫の態度に傷ついているでしょう?」
「躾の悪い猫」
フィオナはさらりとダリア・サイムズを貶めす発言をする。レジーナがやや咎めた視線を向けてくるが、フィオナはにんまりと笑う。
「わたしも色々調べたの。知りたい?」
「……」
「素直になることも必要よ。別に好きだから結婚しなくちゃいけないわけじゃないし」
「……教えて?」
レジーナはさんざん悩んだが、小さな声で願いを告げた。その言葉にフィオナが大きく頷いた。
「彼女、子爵家の養女なの。愛人の娘だと言われているわ。アクロイド様とは確かに幼馴染だけど、どちらかというとおまけなのよ」
「おまけ? 誰の?」
いつの間に情報を仕入れてきたのか、しれっとした顔でフィオナが話し始める。レジーナも知らないうちに抵抗なく耳を傾ける。
「もちろん、彼女の兄よ。サイムズ子爵家はアクロイド侯爵家の親戚筋なのよ。そのつながりで、子爵家嫡男と侯爵家の兄弟は仲が良かったみたい」
「兄達に放っておかれた彼女の面倒を見たのがアクロイド様なのね」
「そうよ。だからアクロイド様は妹に接するような感情しかないのだと思うの」
フィオナの見解にレジーナも頷いた。ランドルフはフィオナがダリアのことを持ち出すまで、心の片隅にもなかったようだった。ダリアの話を持ちだされて驚いていたようにも今なら思える。
「でも、それってお父さまと同じになるかもしれないわね。それなら契約結婚の方がいいのかしら」
レジーナがぽつりと呟く。フィオナは感心しないと言ったように眉を寄せた。
「契約結婚ねぇ。誰でもいいなら、顔すら合わせずにできるけど、それはそれで問題がありそうよね。王家主催の夜会は出席しないといけないとか」
「お姉さまは本当に離縁するの?」
「そのつもりよ。わたしの離縁が決まったら、わたしがこの家を継ぐことにするわ。ほら、結婚しての離縁だし、子供もいるし」
名案だとフィオナは手を叩く。レジーナは非常に疑わしい顔をした。
「お姉さまの子供は王位継承権を持つのでしょう? 簡単にはいかないと思うわ」
「王位継承権なんて放棄よ、放棄!」
姉の軽口を咎めながらも、レジーナは笑みを浮かべた。
「好きという気持ちは大切にした方がいいわ。たとえ結婚につながることではなくても」
「そんなこと許されないでしょう?」
「そういう問題じゃないのよ。恋は素敵なのよ。恋を知っていた方が知らないよりも幸せよ」
レジーナは特に反論はしなかった。納得もできていないようだが、先ほどよりも明るい顔色にフィオナは胸をなでおろした。